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2007年 07月 23日
舞台裏
昨日7/22がpleyelさんの演奏会本番。
会場到着が若干遅れていたpleyelさん本人に代わり、私のほうで照明進行の細かな事前打ち合わせを行なった。本番では、舞台裏にて持参のMacを広げてデジタル録音しつつ、照明のキュー出しもやっていた。本当は客席で聴いてみたかったが、録音機材からの音声出力をイヤフォンで聴きながら、台本(とモニタ画面)で舞台の進行を確認しつつ、インカムでキューを出す、というのも、面白い体験だったと思う。

構想時点から関わっていてそもそも台本・曲目の原案も自分である程度までは書いていたので内容についてはよく分かっているし、公演に先立っての通し演奏も聴いていたのだが、改めて実際の公演を聴いていて(舞台裏にあってじっくり鑑賞というわけにはいかなかったにせよ)やはり大変感銘を受けた。『源氏』シリーズで朗読とピアノを数年来にわたって演じておられるpleyelさんの、語りとピアノとの間(ま)が絶妙。言葉が途切れたあとを音の断片が継いでいく。余韻、暗示、拡散、はたまた凝縮。全体を通して感情を込めた読みがとても素晴らしく、つい聴き入ってしまった。

特に、第一部の最後で、恋人の死の報せ(平資盛らが壇ノ浦で入水)を受けての右京大夫の絶唱詠四首の朗読に続いて演奏されたラヴェルの「鐘の谷」(ピアノ曲集『鏡』第五曲)のところで、私は思わず目頭が熱くなった(ただし回りに人がいたので我慢した)。また第二部でドビュッシーの悲しく切ない「雪の上の足跡」(前奏曲集第一巻第六曲)の途中では、上を向いてハンカチで目を押さえるほどだった。

今日、録音した音源を通して聴いていたが、またしても、今度は、右京大夫が建礼門院(壇ノ浦で助け上げられて寂光院に隠棲していた)を大原へ訪ねて嘆く場面に続いて弾かれるドビュッシー「沈める寺」(前奏曲集第一巻第十曲)でジーンとしてしまう。もともと好きな曲であるし、この曲は自分が選定したものだったので、場面の感情移入がしやすいということもあるのだろう。

録音音源を編集し、少しでも早く、多くの方へ公開することが出来れば、と思う。
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by junitchy | 2007-07-23 22:45 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 07月 21日
解説:しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集
和歌の第一人者として当代はもとよりこれ以降の和歌に多大な影響を与えた藤原定家は、和歌史に名高い『新古今和歌集』の撰者の一人であったが、それに続く九番目の勅撰集となる『新勅撰和歌集』を今度は定家独りで撰することとなった。時は鎌倉中期のこと、虚しくも倒幕を企てた後鳥羽院が隠岐に配流されてから(世に言う「承久の乱」)既に十数年が経っており、幕府は北条氏がその権力を確たるものとしていた時代。ちなみに、同じく定家撰の『百人一首』が成立したのもこの頃である。

その『新勅撰集』に、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という名で二首の歌が採られている歌人が、本日演じられる『しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集』の原作者である。


建礼門院とは、平安時代最末期に権勢を極めた平たいらのきよもり清盛の次女・徳子(のりこ)へ贈られた院号(上皇や皇太后などに贈られる尊号)である。彼女は平家の絶大な勢力を背景に高倉天皇妃(中宮)となって安徳天皇を生み、自身もこの世の栄華を極めた。だが、奢れるもの久しからず。清盛死後の、坂を転げ落ちるような平家の没落。壇ノ浦の合戦でついに平家一門は破れ、清盛の妻であり徳子の母である時子(二位尼)に抱かれて幼い安徳天皇も海に沈んだ。そのとき徳子自身も入水するが、源義経の軍勢に助け上げられ、後に出家して大原・寂光院に入り、一門の後世菩提を弔った。『平家物語』の「灌頂巻(かんじょうのまき)」では、時代に翻弄され数奇な運命を辿った彼女の生涯が、仏教的無常観をもって描かれている。

その中宮徳子に、作者は「右京大夫」という女房名で短い期間(約五年ほどと考えられている)仕えていた。彼女の本名は、残念ながら伝わっていない。生没年も未詳。父は能書の家柄で『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典研究などでも知られる世尊寺伊行(せそんじこれゆき)。母は楽人の家柄であった大神基政女(おおみわもとまさのむすめ)で夕霧といい、箏(こと)の名手だった。両親から受け継いだ高い文学的・音楽的素養をもって宮中に仕えていたことは、たとえば和歌の贈答で見せる機微、本文中に認められる『源氏物語』からの影響、また殿上人らが吹く笛に作者が琴を合わせて管弦の遊びをしたことを懐かしむというエピソードからも十分窺い知ることが出来るだろう。


なお「建礼門院」という院号が中宮徳子へ贈られたのは高倉天皇の崩御後のことで、その時にはすでに作者は宮仕えを退いていた。だから作者が当時「建礼門院右京大夫」というふうに実際に呼ばれていたことはなかったはずである。ではなぜ定家は『新勅撰集』にこの名を使ったのであろうか。


徳子のいる宮中から退いてしばらく経ったのち、作者は、かつての高倉天皇に大変よく似ていたという後鳥羽天皇のいる宮中へ再び出仕することになった(後鳥羽天皇生母であった七条院に仕えたというが、はっきりしたことは分かっていない)。だが少なくとも、再出仕したころの彼女はまた別の名前で(たとえば「七条院右京大夫」などと)呼ばれていたことだろう。

『新勅撰和歌集』の編纂のため和歌の提出を求めたとき、定家は彼女に「どの名前でお載せになりたいか」と尋ねる。彼女はこれに「すっかり遠ざかってしまった昔のことが忘れ難いので、その昔の名で」と答える。この時すでに最晩年の齢(よわい)に達していたはずの彼女は、今の名前ではなく、もう半世紀近くも前の、中宮徳子に仕えていたころの「昔」の名が後の世まで残ることを望んだのである。そして定家は、その彼女の意を汲んで、徳子の院号である「建礼門院」に仕えていた「右京大夫」として彼女の名を書きとどめたのであった。

つまり「建礼門院右京大夫」という名は、そもそもの初めから「むかしの名」「いにしえの名」としてのみ存立していたものであったということになるであろう。


では作者の言う「忘れ難い昔」とは、どのようなことであったか。それが『建礼門院右京大夫集』と題された家集の全体を貫く主題になっている。幾つかの歌には、作者の思いの丈を綴った長い詞書が付されており、詞書と和歌とが相俟って単なる和歌集という以上の文学性を帯び、作者の深い思いを述懐した一つの文学作品として読むことを可能にしているのである。作者は本文の中で「ためしなき(=前例のない、他にくらべようもない)」という言葉を幾度となく使っているが、まさしく身も引き裂かれるほどの「ためしなき別れ」を体験することになった作者が抱き続けた、決して尽きることのない遠い過去への追想、そして、永遠に終わることのない恋人の後世の弔い。八百年という時間を隔てた現在にあってなお、作者の痛切な思いはその真摯な力を失ってはいない。洋琴(ピ アノ)の調べによってその思いを象りながら、彼女の永遠の追慕の念のほんの一端でもお伝えすることができたなら、演奏者にとってこの上ない幸せである。



※公演当日(明日7/22)に会場にて配布予定のプログラム用に書いた解説文。
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by junitchy | 2007-07-21 19:50 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 07月 12日
解説:『建礼門院右京大夫集』
『建礼門院右京大夫集(けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう)』は、平安時代最末期に権勢をふるった平清盛の娘である建礼門院徳子に「右京大夫(うきょうのだいぶ)」という召名で仕えた或る女房が残した「家集(かしゅう)」(いえのしゅう。一個人の和歌を集めたもの)です。

幾つかの歌には長い詞書(ことばがき。歌を詠んだ機会や背景などを説明するために和歌の前に置かれる端書き)が付されており、むしろこの詞書のほうが「本文」であるかのようにここに作者の思いの丈が縷々綴られています。そのためこの『建礼門院右京大夫集』は単なる和歌集ではなく全体として日記文学のように受容されることもあります。日記といっても、むろん日々書き継がれたものではなく、自らが以前詠んだ歌を糸口にして、過ぎ去った昔のことに思いを馳せながら後日まとめられたものであり、その点からすれば和歌を軸にした作者自らの「回想録」であると言えるかもしれません。

「歌人と言える人ならば、自らの歌を家集としてまとめることもありましょうが、これは、そのような大それたものではありません」と、この家集の序の部分で述べられています。「ただ忘れ難く思われることを、折々に思い出すままに、後で自分だけで見ようとここに書き付けているのです」と。もちろんこれは作者の謙遜の辞でもあるでしょうが、この集を書き始めたきっかけというものを素直に、端的に言い表してもいます。

では作者が忘れ難いと思っている過去とは、どのようなものなのでしょうか。それは『平家物語』に描かれた時代を実際に生きた作者の未曾有の体験でした。

高倉天皇の中宮であった徳子へ仕えていたころの華やかな思い出。武士というよりも貴族のいでたちである若い平家公達(きんだち)らとの楽しい交流。そのなかで芽生えた平資盛(すけもり)との恋。思うにまかせない恋の行方に悩み苦しむ。やがて時代は急速に流転し兵乱の世へ。平家一門は西国へ都落ち。そして恋人資盛と今生の別れ。親しくしていた人々の死、変わり果てた姿。そしてついに耳にする、恋人が壇ノ浦の波間に消えたとの悲報...。ひたすら恋人の後世(ごせ)を弔いつつ、泣き暮らす日々。かつてお仕えした建礼門院を大原へと訪ねるが、往日の栄華からのあまりの変わり様に嘆く。しばらく経って後に思いがけず再出仕した宮中では昔のことが否応もなく思い出され、身も砕けそうなほどの悲しみがいっそう募る...。

平穏な貴族社会の衰退と武力による権力争いが本格化する中世の幕開け、という歴史上の大転換期の真っ只中にあって、作者は先例のない辛い別れをその身に実際に体験してきました。過ぎ去った日々の大切な思い出が失われてしまう前にせめて書きとどめておきたい、そして儚はかなくも海の藻屑と消えた恋人を願わくば自分の死後までも弔い続けていたい...。このような作者の強い気持ちが、この一篇の家集へと結実したのだと言えるでしょう。

『しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集〜』では、原作より幾つかのエピソードを選び、必ずしも原文の体裁にとらわれず自由に再構成した上で洋琴(ピアノ)の調べとともに朗読し、作者がこの家集に託した永久の思いを印象的に綴ります。


※『しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集』のチラシのために書いた解説文を転載。
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by junitchy | 2007-07-12 23:01 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2007年 05月 27日
しのばしきむかしの名こそ
pleyelさん(こと、西山葵耀古さん。ホームページはこちら)は、数年前から『洋琴・源氏物語絵巻』シリーズを手がけておられる。これは、『源氏物語』を元にして朗読台本を書き、それを朗読しながら「洋琴」つまりピアノを弾く、というもの。個人的に以前よりお知り合いだったということもあり、私はこの『源氏』シリーズの演奏会をかなり多く見てきている。

面白いのは、例えば同じ「夕顔」でも毎回完全に同じということはなく、曲目や台本はその都度かなり変わっている。また会場に合わせて様々な試みをなさっていて、衣装や舞台装飾にもこだわっている。たとえば能の舞台でのようなゆっくりとしたしぐさで登場したり、薄絹、活け花、灯などが舞台上や会場内を彩っていたり、雰囲気のあるサロンでの演奏ではケーキセットが付いたり、また演奏後に立食形式でワインとワン・プレートが付いたり、ということもある。

それぞれの場合で一貫しているのは、これは音楽以外の領域との「コラボレーション」ということだ。

もちろん、コラボレーション(共同作業)というものには当事者同士のあいだで少なからず思惑の違いや行き違いなどの微妙な間(ま)が生じてしまうものであろう。だがそれは決して欠点などではなく、ある種の「可能性」の開口なのである。

そもそもこの『洋琴絵巻』シリーズは、まずは「言葉」と「音楽」とのコラボレーション(それも日本の古典文学と、西洋クラシック音楽との)であるわけなのだが、決してそれだけではなくて、これは私がこれまで見てきて感じていることなのだが、通常の演奏会の域を越えて様々なジャンルが「競演」する「場」であり、全体としてひとつの「表現形式」なのだ、ということである。チケットぴあでの取り扱いを最近「演劇ジャンル」にしたのを「そのほうが手数料が若干安いから」などと冗談混じりにおっしゃっていたことがあるが、いやいやまさしく「演劇」的(ないし総合芸術的)な要素が強いのである。


  *


私は和歌が好きだということもあり、以前から「今度は、和歌とピアノはどうか」とpleyelさんにお話ししたりしていた。
そのとき私が漠然と抱いていたイメージは、和歌に詠まれた情景をピアノにて敷衍していく幾つかの場面の連なり、例えて言うなら襖を一つ一つ開け部屋を移りながら幾つかの屏風絵を見ていくような、そんな進行といったものだったが、もちろん現実問題としては和歌を一首ずつ読み上げてただ曲を弾いていく、というだけでは構成上で問題があるし、そもそも内容が伝わりにくいだろう。和歌内容に即した文章を合わせてみる、などといろいろと思案をめぐらしていたのだが、構想として確定することなく、立ち消えになりそうだった。

そんななかで私が辿り着いたのが『建礼門院右京大夫集』である。

『平家物語』に描かれた時代を生きた一女性が残した追憶の歌集。このように言ってしまうと、この集の或る面のみを強調してしまうことになるかもしれないが、これが一般的な導入としてはもっとも分かりやすく通りが良いものだろう。歌の前に置かれた詞書はまるでこちらのほうが「本文」であるかのようであり、作品全体として見ると平安時代の女流日記文学のように受け取られることもある。内容的にもストーリー性があり訴求力のあるもので、これをぜひ『洋琴物語り』としてやってみたいと思ったのだ。

なお、私がこの集を知ったのは『玉葉和歌集』(京極為兼撰)・『風雅和歌集』(光厳院親撰)にこの集からの歌が多く採られていたからである。以前このブログでも書いたが

月をこそ 眺め馴れしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる


や、たとえば心象風景がそのまま映じられたような

夕日うつる 梢の色の 時雨るるに 心もやがて かきくらすかな


など、新しい感覚での詠歌が京極派和歌の嗜好に合っていたのであろうし、また『平家物語』の時代から百数十年後の、今度は『太平記』に描かれることになる動乱の世(鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ)のさなかにあったということで、この先人の家集に語られている内容に深く共感されるところも大きかったのであろう。

私が原案となるべき朗読台本を書き、あわせて演奏曲目案を考えていたのだが、結局、不完全な草稿というかたちでその後の完成をpleyelさんへ委ねることになった。だが演奏者本人によって舞台的一体性をより高めたかたちに練磨されていくことで、この作品がより多くの人の心へと届けられることになれば、私としては幸甚の至りである。


(※公演内容の紹介ページはこちら
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by junitchy | 2007-05-27 14:20 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 02月 05日
深きあはれ
    闇なる夜星の光ことにあざやかにて晴れたる空ははなの色なるが
    今宵見そめたる心地していとおもしろく覚えければ
                             建礼門院右京大夫

 月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる

     (玉葉和歌集、巻第十五、雑歌二)


 月ばかりを眺めることにすっかり慣れてしまっていたのだろうか、
 月の無い、ただ星だけが輝く夜というものがこんなにも素晴らしかったのだということに
 今宵初めて気付いたのだった


『玉葉和歌集』での詞書は、この歌が採られた『建礼門院右京大夫家集』にある元の長い詞書を選者が略したものだろう。その元の詞書を「千人万首」の通釈にて引用すると:

[詞書] 十二月一日頃だったろうか、夜になって、雨とも雪ともなく、ぱらぱらと落ちて来て、叢雲があわただしく往き来し、すっかり雲に覆われはしないものの、ところどころ星が消えたり光ったりしている。私は衣(きぬ)を引き被って横になっていたが、夜が更けた時分、丑二つ(午前二時半)頃かと思った時、衣をどかして空を見上げると、みごとに晴れて、薄藍色の夜空に、異様なほどの光を放つ大きい星々が、いちめんに現れていた。非常に心惹かれるさまで、縹(はなだ)色の紙に、金などの箔を散らしたのによく似ている。今夜初めて見たような気がする。今までも、星月夜は見慣れてきたけれども、これは折も折とて、格別な気持がするにつけ、ただ物思いに耽るばかりである。

今週は上弦の月なので、今、この真夜中の時に空を見上げれば、ちょうどこの歌にて詠まれているような星空になっていることだろう。十二月一日頃というから時期的にも同じ。八百年前に冬の夜空を見上げ、まさしく、星辰の妙(たえ)なる布置から発せられる無音の<音>を感じ取っていたのである。千人万首の解説によると、作者の恋人であった平資盛が壇ノ浦で滅した後に詠まれたものだという。きっとこの上ない無常感に包まれていたであろう作者が、美しい星空の永遠の美しさに感じたのと同じ「深きあはれ」を、八百年後の今、私はむしろこの歌に対して覚えずにはいないのである。
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by junitchy | 2006-02-05 01:52 | 和歌逍遥 | Comments(0)