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2010年 01月 02日
盃に光
  元日宴
                       藤原家隆
もろ人の たちゐる庭の 盃(さかづき)に 光はしるし 千世のはつ春
(六百番歌合、春上、第三番右。壬二集、上)


たくさんの人々が立ち居る庭では、祝盃に光が一際目立って輝いている。千世を祝うこの初春の日に。


   *


名高い『六百番歌合』の春の最初の題「元日宴」、つまり新年を祝う宮中での宴を詠んだ一首。

歌合の判者、藤原俊成は
「姿は優に侍るを(=歌の体は優美だが)、盃、俄(にわか)なるやうに聞ゆらん(=盃というのが唐突な感じがする)。光も盃のひとかたはことよりて侍れど(=光というのも、盃に一面では依っているようだが)、何の光ともなくやあらん(=何の光なのだろうという感じがしなくもない…意訳)」
と述べて、この歌を負けにしている。

だがそうだろうか。題詠ではあるが、この歌の雅やかな情景を鮮やかに思い描くことが出来るように思われる。

祝宴に集う大勢の殿上人が華やかに立ち振る舞っている宮中の庭。そこへ初春の陽光が差し込み、手に持っている盃に注がれている祝の酒に美しい輝きを添えたのだ。新春を言祝ぐのにとてもふさわしい歌ではないだろうか。
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by junitchy | 2010-01-02 00:31 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2008年 03月 02日
Le rossignol
ちょっとしたきっかけがあって、書棚の奥のほうに仕舞ったままになっていた或る本を取り出す。末尾ページ余白に購入日を書き入れていた:1993年11月5日。

本のタイトルは"Anthologie de la poesie japonaise classique" (traduction: G. Renondeau, Gallimard - Collection POESIE,1978) つまりフランス語訳『日本の古典詩歌選集』。万葉集や古今集をメインに、江戸時代の俳句までを作者ごとに数首選んで掲げられているものだ。

試しに一首、引用してみよう:

  N'etait le chant
 Que lance dans la vallee
  Le rossignol,
 Qui donc saurait
 Que le printemps est arrive?

※アクサン記号は表記出来ないため省いている(たとえば1行目の「etait」の「e」にはアクサン・テギュ(´)が付く)。

このフランス語からそのまま日本語に訳してみよう。

1行目のN'etait〜は仮定法過去で「〜がもし無かったならば」の意。三行目の rossignol を仏和辞書で引くと「ナイチンゲール、夜鳴き鶯(うぐいす)」と出る。le chant que lance dans la vallee le rossignol は「鶯が谷間にて発する鳴き声」。つまり上の句は、この「鳴き声が無かったならば、」となる。4行目の saurait は savoir (知る)の条件法で、1行目の N'etait を受ける。doncは強めで「ならば」。Qui donc saurait で「では誰が知るだろうか」。そして5行目はそのまま「春が来たと云うことを」。
これをつなげてみると:

 鶯が谷間にて鳴くその鳴き声がもし無かったとしたら、
 ではいったい誰が春が訪れたのを知ることであろうか。

それほどまでにウグイスの初声が待ち遠しいという、春を待ちわぶ気持ちである。

さてこれで、原歌が浮かぶだろうか。『古今和歌集』を読んだことがあればきっと思い当たるだろう。

                    大江千里
 鶯の谷よりいづるこゑなくば春くることをたれか知らまし
 (古今和歌集、巻第一、春歌上)


…さて今年は、いつ聞くことができるだろう。
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by junitchy | 2008-03-02 16:47 | 和歌逍遥 | Comments(2)
2007年 12月 31日
夢語り、昔語り
光いでん あかつきちかく なりにけり 今ぞ見し世の 夢語りする
(光が出ようとしている。暁が近くなってきたのだなあ。
 今こそ、かつて見た夢のことをお話ししよう)


これは実在の人物による和歌ではなく、『源氏物語』「若菜上」巻で、明石の入道が娘の明石の君(または明石の女御)へと宛てた手紙の中の歌。光源氏と明石の君との間に生まれた明石の姫君(明石入道からすると孫娘にあたる)が、春宮(=皇太子)に入内して男宮を出産したとき、明石入道がかつて明石の君が生まれる頃に見た夢について語り出す場面である。

ちなみにその夢の内容とは『自分は須弥山を右手に捧げ持っていた。その山の左右から、月の光と日の光とが明るくさし出して世の中を照らす。自分自身は山の下の蔭に隠れて、その光に当たらない。山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って、西の方角を指して漕いで行く』(渋谷栄一氏「源氏物語の世界」の現代語訳より引用)というもの。これを神のお告げと信じて明石入道は長く願を掛けてきたのだったが、孫娘が第一皇子を生むに至ってそれが叶ったと感じ、この手紙を最後に山深くへと入山してしまう。明石入道にとっては栄光の時であったろう。私がこの部分を読んだとき(実は最近私は現代語訳でではあるが『源氏物語』を通読しているのである)、作者紫式部の壮大とも言える物語構想に素直に感銘を受けた。

そしてそのとき同時に、私は或る全く別の和歌を思い起こしていたのだった。それは光厳院の歌である:


  いかなりける時にかよませ給うける
                     法皇御製
見し人は 面影ちかき 同じ世に 昔語りの 夢ぞはかなき
(新千載和歌集、巻第十五、戀歌五)


解題的なことを若干。『風雅和歌集』に続く勅撰集『新千載和歌集』の完成は1359年。光厳院はこのとき既に出家していたので「法皇御製」との表記になっている。「戀歌五」での配列を見ると「面影」の歌の繋がりのなかに配置されている。この歌は『光厳院御製集』には収められておらず、晩年の作であろうか。ちなみに『新千載集』より二つ後の勅撰集である『新後拾遺和歌集』(1384年完成)にも重複して採られていて、そちらでは巻第十七・雑歌下に収められ、「題しらず」の詞書が掛かり、「夢」の歌の繋がりの中に配置されている。

この歌を初めて目にした時からとても気になっていたものの、どのように解釈したらよいだろうとしばらく悩んでいたので、明石入道の歌にある「見し世の夢語り」という言葉を見たときにこの歌の「昔語りの夢」がおのずと連想されたのであろう。いわば私のなかで繋がったのだった。勿論、内容的に通じる部分があるというのではないし、却って正反対のイメージを受ける。すなわち一方は曙光であり、これから訪れる吉兆の夢物語であるが、他方は面影、過ぎ去った昔の夢語りの虚しさ、無常である。

ここで更に連想を続けてみたい。この歌の「同じ世」という語句は、『建礼門院右京大夫集』から『風雅和歌集』(他ならぬ光厳院の撰である)に採られた一首「おなじ世となほ思ふこそかなしけれ あるがあるにもあらぬこの世に(あなたとわたくしとが同じ世にいるのだと思ってみても悲しいばかりです。こうして離ればなれとなり、生きていることが生きていることにならないようなこの世の中にあっては)」を思い起こさせる。これは建礼門院右京大夫が都落ちした恋人・平資盛へ宛ててわずかな伝手を頼って送った手紙の中での歌である。
また「面影ちかき」という語句からも、同じ『右京大夫集』から恋人の訃報に際しての詠、「ためしなきかかる別れになほとまる おもかげばかり身に添ふぞ憂き(前例のないようなこの別れ[=恋人との死別]に遭ってもなお、あの方の面影だけが今でも我が身に寄り添っているのが辛いのです)」が思い出される。
もちろん、光厳院がこの歌を詠むに際してこうした歌を参考にしたということを言いたいのではない(ただし『右京大夫集』からは『玉葉和歌集』には十首、『風雅和歌集』には六首が採られており、光厳院は『右京大夫集』の内容を熟知していただろうが)。

これらをふまえて、やや強引に解釈してみよう。「見し人」とはかつて見知った人、恋人の謂であろうか。右京大夫の歌を視野に入れつつ「死別した恋人」と言えるかもしれない。とすると、この昔の人と自分とはかつては「同じ世」にいたが今は違う。昔の人は、今では面影として自分に残っているだけだ。だから「同じ世」といっても昔の人と自分とがかつて共有していた時の「同じ世」であり、今となっては異なる世、自分のほうだけが以前と変わらず同じである世、つまり「自分のこの世での生」の謂ということになるであろう。亡き人の面影が近くに留まっていると感じられる私の人生において見る「昔語りの夢」とは、昔のことを語り出す夢、昔の人との思い出をありありと見せてくれる夢だろう。そしてそんな夢も結局ははかなく、虚しいものなのである。

意訳(というか、文法的・語釈的に誤りであったとしても、こういう風に読んでみたい):かつて見知ったあの人は、その面影は身近に残ってはいるのだが、私が現世で見る昔語りの虚しい夢とばかりに、はかなくも消え去ってしまった。

かなり強引に解釈してしまった感があるが、まあ今のところは取りあえず、これで良しとしておこう。
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by junitchy | 2007-12-31 19:37 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2007年 10月 14日
秋歌選
秋の日のうすき衣に風たちて行く人待たぬをちの白雲
   藤原定家 (玉葉和歌集、巻第八、旅歌)

秋の日の弱い陽光、まだ夏の薄い衣を着ていた旅人には涼しく感じられる風が立ち、その風に吹かれて遥か遠くに流れる白雲は行く人を待ってはくれない。もう秋になってしまったのだ。季節のうつろいは、こんなふとした瞬間に実感されるものだろう。「をち」は「遠く」の意。

   *

夕づく日むかひの岡のうす紅葉まだきさびしき秋の色かな
   藤原定家 (玉葉和歌集、巻第五、秋歌下)

暮れかかった陽光に照らされ、向いに面した岡のあたりで薄く色づき始めた紅葉は、早くもあのうら淋しい秋の色、秋の気配になっているなあ。まだ薄い紅葉が夕陽の紅によって濃く染められたかのようなその色彩に、秋の深まりを感じないではいられない。「まだき」は「早くも」の意。

   *

ま荻ちる庭の秋風身にしみて夕日のかげぞかべに消え行く
   永福門院 (風雅和歌集、巻第五、秋歌上)

風にそよぐ荻も散ってしまい、庭を吹きぬける秋風が肌身にしみてじかに感じられる、晩秋の夕暮れ時、低く斜めに部屋の奥まで差し込んでいた弱々しい陽光が、ふと、壁の上で消えてしまった。その瞬間の、言うに言われぬ美しさ。こうした仄かでかすかな動きを捉えてそこに美を見出すことのできる鋭い感受性は、いわゆる「京極派」歌人らの顕著な特徴である。

   *

まだ暮れぬ空の光と見る程にしられで月の影になりける
   伏見院 (玉葉和歌集、巻第五、秋歌下)

夕陽はまだ沈み果てておらず、その最後の残照かと思ってほのかに明るい空を見ていたのだが、それはいつの間にやら月の光へと変わってしまったのだなあ。日と月とによって繰り広げられる美しい天空の情景。

   *

月見れば千千にものこそ悲しけれ我が身一つの秋にはあらねど
   大江千里 (古今和歌集、巻第四、秋歌上。百人一首、二十三番)

月を眺めると、あれやこれやと思い悩まれて物悲しく感じられるものだ。なにも私一人だけの秋だというわけでもないというのに。古来、人は月を眺めては、そのいつまでも変わらぬ姿に遠ざかった懐旧を思い出し、またつれない恋人を思い慕う。秋の夜の月なら、なおさら強く物思いをさせられることだろう。

   *

嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな
   西行 (千載和歌集、巻第一五、恋歌五。百人一首、八十六番)

月が嘆けと言って私に物思いをさせているとでもいうのだろうか。いやそうではないのに、まるで月がそうさせるのでもあるかのように恨みがましく流れるこの涙であることだ。月に思いを託して詠んだ、深い情愛の歌。

   *

竜田川散らぬもみぢの影みえてくれなゐ越ゆる瀬々の白浪
   九条良経 (続拾遺和歌集、巻第五、秋歌下)

今はまだ散っていない紅葉だが、水面に映じたその像が美しく見えて、その紅色を越えゆくように竜田川のせせらぎが白い浪を立てて流れている。竜田川といえば散った紅葉が川面を流れる情景が古来詠まれるが、この歌では水に映った紅葉の「紅」と、せせらぎの「白」とが鮮やかに対比されている。

   *

眺むれば我が心さへはてもなく行方も知らぬ月の影かな
   式子内親王 (続拾遺和歌集、巻第五、秋歌下)

物思いに耽りながらぼんやり月を眺めていると、私の心までも、果てしなく広がっていってしまうかのよう。どこまでも行方も知らぬ月の光であることよ。これは単に恋人を思っての詠だろうか、いやむしろ、森羅万象へと思いを巡らしているのではないだろうか。「行方も知らぬ」(行く先も定まらぬ、あてどもない)は、式子内親王が好んで使う語。

   *

行方なき空に心の通ふかな月すむ秋の雲のかけはし
   藤原定家 (拾遺愚草、上、三四八、閑居百首)

月が澄み切って輝く秋の夜には、雲が掛け橋となって、あてどもなく広がっていく天空へと我が思いを馳せ、心通わせるのだ。先の式子内親王の詠に共通する、大きな広がりを持った歌。



(2007年9月26日 板室温泉大黒屋・音を楽しむ会 西山葵耀古さんによるピアノおよび和歌朗読「秋の歌に寄せて」のために選んだ和歌と、和歌解説)
西山葵耀古さんのブログのエントリはこちら
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by junitchy | 2007-10-14 12:10 | 和歌逍遥 | Comments(2)
2007年 08月 25日
白みゆく
また和歌をいくつか。

                                新右衛門督
ほのぼのと あけゆく空は 星きえて 色こく残る 峯のよこ雲
(康永二年院六首歌合、雑色、七十五番右、勝)

この一首は『風雅和歌集』には採られてはいないが、その撰集の準備として催されたのであろう『院六首歌合』での詠。康永二(1343)年、花園院主催の歌合である。三弥井書店『風雅和歌集』の作者略伝によると宣光門院新右衛門督(せんこうもんいんのしんえもんのかみ)で、宣光門院(花園院妃)に仕えた女房とのこと。星がだんだんと消えてゆく東雲(しののめ)の情景、山に掛かる横雲には朝焼けの赤い色が濃く照り映えている。消えゆく星の弱い光と対比的に朝焼けの濃い色が配置されている。

この同じ歌合からは、同じく明け方の情景を詠んだ別の歌が『風雅和歌集』に採られている。こちらは前にもどこかで紹介したはずだが、

                                一条
しらみまさる 空のみどりは うすく見えて 明残(あけのこ)る星の 数ぞきえゆく
(康永二年院六首歌合、雑色、七十八番右、勝)

『風雅和歌集』には巻第十六、雑歌中、「康永二年歌合に、雑色を/院一条」として入っている。作者は花園院に仕えた女房。こちらのほうがより優れているので、同趣の『ほのぼのと』のほうは採られなかったのかも知れない。それにしても、これらの、星々が消えていく情景というのは何とも美しいものではないだろうか。まあもちろんこれは個人的な好みなのであるが。院一条の歌は、一句、三句、四句で字余り。このたどたどいしいまでの言葉遣りが、私には却って薄明の空に一つ一つ消えていく星の名残を感じさせる効果を上げているとすら思えるのである。

もう一首。今度はさかのぼって『玉葉集』から。

   月の御歌の中に
                                朔平門院
白みゆく 空のひかりに 影消えて 姿ばかりぞ 有明の月
(玉葉和歌集、巻第五、秋歌下)

作者は伏見院第一皇女。この歌は見逃していた。いろいろな場所で何度か言っているが、いわく森羅万象の中で私が最も好きだと言えるのが「下弦月」であり、朝日がすっかり昇っても天空に残っているその恨めしい姿なのである。
(だが、考えてみると、下弦の月に対してこのように「恨めしい」という感じを抱いているのは恐らく後から付いたもので、それは確か立原道造の詩の影響なのである。手元に道造の詩集がないので、試しに青空文庫で公開されているものをざっと探してみたが見つからない。なんという詩だっただろう。「…限りない嘘を感じている」というような一節で終わる詩。まあ、それはともかく…)
夜明け、薄明の時。白み行く空の光に、その月影はだんだんと薄められ、日が昇るにつれて星々はすべて消え去ってしまうのにただもうその弱々しくも恨めしい姿を晒している月。私の最も好きな情景をかくも的確に詠み込んでおり、つい嬉しくなってしまう。やはり京極派和歌は良いなあ。
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by junitchy | 2007-08-25 21:51 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2007年 07月 21日
解説:しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集
和歌の第一人者として当代はもとよりこれ以降の和歌に多大な影響を与えた藤原定家は、和歌史に名高い『新古今和歌集』の撰者の一人であったが、それに続く九番目の勅撰集となる『新勅撰和歌集』を今度は定家独りで撰することとなった。時は鎌倉中期のこと、虚しくも倒幕を企てた後鳥羽院が隠岐に配流されてから(世に言う「承久の乱」)既に十数年が経っており、幕府は北条氏がその権力を確たるものとしていた時代。ちなみに、同じく定家撰の『百人一首』が成立したのもこの頃である。

その『新勅撰集』に、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という名で二首の歌が採られている歌人が、本日演じられる『しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集』の原作者である。


建礼門院とは、平安時代最末期に権勢を極めた平たいらのきよもり清盛の次女・徳子(のりこ)へ贈られた院号(上皇や皇太后などに贈られる尊号)である。彼女は平家の絶大な勢力を背景に高倉天皇妃(中宮)となって安徳天皇を生み、自身もこの世の栄華を極めた。だが、奢れるもの久しからず。清盛死後の、坂を転げ落ちるような平家の没落。壇ノ浦の合戦でついに平家一門は破れ、清盛の妻であり徳子の母である時子(二位尼)に抱かれて幼い安徳天皇も海に沈んだ。そのとき徳子自身も入水するが、源義経の軍勢に助け上げられ、後に出家して大原・寂光院に入り、一門の後世菩提を弔った。『平家物語』の「灌頂巻(かんじょうのまき)」では、時代に翻弄され数奇な運命を辿った彼女の生涯が、仏教的無常観をもって描かれている。

その中宮徳子に、作者は「右京大夫」という女房名で短い期間(約五年ほどと考えられている)仕えていた。彼女の本名は、残念ながら伝わっていない。生没年も未詳。父は能書の家柄で『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典研究などでも知られる世尊寺伊行(せそんじこれゆき)。母は楽人の家柄であった大神基政女(おおみわもとまさのむすめ)で夕霧といい、箏(こと)の名手だった。両親から受け継いだ高い文学的・音楽的素養をもって宮中に仕えていたことは、たとえば和歌の贈答で見せる機微、本文中に認められる『源氏物語』からの影響、また殿上人らが吹く笛に作者が琴を合わせて管弦の遊びをしたことを懐かしむというエピソードからも十分窺い知ることが出来るだろう。


なお「建礼門院」という院号が中宮徳子へ贈られたのは高倉天皇の崩御後のことで、その時にはすでに作者は宮仕えを退いていた。だから作者が当時「建礼門院右京大夫」というふうに実際に呼ばれていたことはなかったはずである。ではなぜ定家は『新勅撰集』にこの名を使ったのであろうか。


徳子のいる宮中から退いてしばらく経ったのち、作者は、かつての高倉天皇に大変よく似ていたという後鳥羽天皇のいる宮中へ再び出仕することになった(後鳥羽天皇生母であった七条院に仕えたというが、はっきりしたことは分かっていない)。だが少なくとも、再出仕したころの彼女はまた別の名前で(たとえば「七条院右京大夫」などと)呼ばれていたことだろう。

『新勅撰和歌集』の編纂のため和歌の提出を求めたとき、定家は彼女に「どの名前でお載せになりたいか」と尋ねる。彼女はこれに「すっかり遠ざかってしまった昔のことが忘れ難いので、その昔の名で」と答える。この時すでに最晩年の齢(よわい)に達していたはずの彼女は、今の名前ではなく、もう半世紀近くも前の、中宮徳子に仕えていたころの「昔」の名が後の世まで残ることを望んだのである。そして定家は、その彼女の意を汲んで、徳子の院号である「建礼門院」に仕えていた「右京大夫」として彼女の名を書きとどめたのであった。

つまり「建礼門院右京大夫」という名は、そもそもの初めから「むかしの名」「いにしえの名」としてのみ存立していたものであったということになるであろう。


では作者の言う「忘れ難い昔」とは、どのようなことであったか。それが『建礼門院右京大夫集』と題された家集の全体を貫く主題になっている。幾つかの歌には、作者の思いの丈を綴った長い詞書が付されており、詞書と和歌とが相俟って単なる和歌集という以上の文学性を帯び、作者の深い思いを述懐した一つの文学作品として読むことを可能にしているのである。作者は本文の中で「ためしなき(=前例のない、他にくらべようもない)」という言葉を幾度となく使っているが、まさしく身も引き裂かれるほどの「ためしなき別れ」を体験することになった作者が抱き続けた、決して尽きることのない遠い過去への追想、そして、永遠に終わることのない恋人の後世の弔い。八百年という時間を隔てた現在にあってなお、作者の痛切な思いはその真摯な力を失ってはいない。洋琴(ピ アノ)の調べによってその思いを象りながら、彼女の永遠の追慕の念のほんの一端でもお伝えすることができたなら、演奏者にとってこの上ない幸せである。



※公演当日(明日7/22)に会場にて配布予定のプログラム用に書いた解説文。
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by junitchy | 2007-07-21 19:50 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 05月 13日
今や夢
『平家物語』の掉尾(とうび)を飾る「灌頂巻」では、壇ノ浦で助け上げられたあと出家して大原寂光院に隠棲していた建礼門院(平清盛の娘、平徳子)を後白河法皇が訪ねるという場面(いわゆる「大原行幸」)が描かれているが、かつてこの建礼門院に仕えた「右京大夫」という召名で知られる或る女房も、建礼門院を大原へと訪ねていたことが、彼女の家集『建礼門院右京大夫集』によって知られる。


「にようゐん(女院)、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られではまゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、...」
(女院[=建礼門院]は、大原においでになるということだけは聞き知っていたが、しかるべき人を通さずに参上するわけにもいかず、それでもやはり、女院を深くお慕いするこの心を道しるべにして、止むに止まれぬ気持ちでお訪ねした)


私も、この右京大夫の思いに誘われてか行ってみたくなり、京都に着いたらまずは大原へと向かった。京都駅前からバスに乗り、桜が満開で大渋滞の鴨川沿いの道を抜けて、高野川沿いへと入っていくあたりから急に山里の雰囲気が感じられ、道の両側には低い山並みが続く(右手は比叡山に列なる)。


「...やうやう近づくままに、やまみちのけしきより、まづ涙はさきだちていふかたなきに...」
(だんだん近づくにつれ、山深くなる道の様子からして [女院はこんな深い山の中にいらっしゃるのかと思われて]先ず涙があふれ出て、言い様もない)


右京大夫が大原を訪れたのは秋のことであったから、なおいっそう物悲しく感じられたことだろう。そうして辿り着いた寂光院で右京大夫が見た有り様は、ひどいものだった。


「...御いほりのさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず。昔の御有様見まゐらせざらむだに、おおかたのことがら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつとも言ふ方なし。」
(女院のおいでになったご庵室(あんしつ)の様、お住いのご様子など、全てのことがらが[とてもひどいもので]目も当てられない。昔のあのご栄華を見たことがない人ですら、ここでの大方の様子をどうして当り前のことだと思えようか。まして、以前のご様子をよく存じ上げている私にとっては、夢とも、現実のこととも、何とも言いようがない)。

当然ではあるが、実際に私が行くとこのような感じではなく、喧騒から離れていて静かでこじんまりとした、綺麗な境内だった。数年前に失火にて全焼してしまった後、元通りに建て直された本堂など特に美しく、却って場違いな雰囲気すら感じられた。

石段
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本堂
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『平家物語』では、法皇に向かって建礼門院は「六道」になぞらえて自ら体験を語る場面が描かれるが、これは後人の創作の部分が大きいのだろう。その『平家物語』成立にあたって資料としても使われている『建礼門院右京大夫集』には、右京大夫が建礼門院とどのような言葉を交わしたかについては何も書かれていない。だが当事者としての彼女の思いはかえってよく伝わってくるように思われる。


「都ぞ春のにしきを裁ち重ねてさぶらひし人々、六十余人ありしかど、みわするるさまにおとろへはてたるすみぞめの姿して、わづかに三四人がかりぞさぶらはるる。その人々にも「さてもや」とばかりぞ、我も人もいひいでたりし、むせぶ涙におぼほれて、すべてことも続けられず」
(「都ぞ春の錦なりける」と古歌にいうような美しい錦を着重ねてお仕えしていた女房は六十人あまりもいたが、今では、その人は誰であったかと見忘れるほどにやつれはて、墨染の姿で、僅かに三、四人だけがお仕えしている。その方々にも「それにしても、まあ…」とだけ、私もその人も言い出したものの、むせび泣く涙にいっぱいになり、まったく言葉も続けることが出来ない。)

今や夢 むかしやゆめと まよはれて いかにおもへど うつゝとぞなき
(目の当たりにしているこの今が夢なのか、それとも昔のことが夢だったのかと思い迷われて、
どんなに考えてみても、本当のことだとは思えない)



汀(みぎわ)の池とよばれる庭は、平家物語の当時そのままの姿を伝えるものだという。樹齢千年以上もあったのに近年枯れてしまった松が、神木として祭られていた。また「諸行無常の鐘」との名のついた古い鐘楼があるが、保存のためか梵鐘を撞くための撞木はロープで固定されて鐘を撞くことは出来ないようになっていた。

神木
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諸行無常
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朽ちた松と、撞かれることのない鐘。この同じ場所で、かつて起こったであろうことに思いを馳せ、しばし沈思。今ここで目にしているものは、では果たして現実なのか。それとも、『平家物語』あるいは『右京大夫集』の言葉たちによって作り出された虚構の世界だったのだろうか。


「さる程に寂光院の鐘のこゑ、けふも暮れぬとうち知られ、夕陽西にかたぶけば、御名残をしうはおぼしけれども、御涙をおさへて還御ならせ給ひけり。」 (『平家物語』)


後白河院が聞いたこの鐘の音はもう聞こえないが、たしかに夕暮が迫っていた。名残惜しい気持ちで、寂光院を後にした。
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by junitchy | 2007-05-13 18:01 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 10月 15日
朝の月、朝の露
西園寺兼実(さいおんじかねざぬ)が秋の朝露を詠んだ歌を。


 (題:草花露)          入道前太政大臣

 数々に 月の光も うつりけり 有明の庭の 露の玉萩

 (『玉葉和歌集』、巻第四、秋歌上)


これはとても詩的な情景だ。「数々に」というのはつまり露のひとつひとつに、ということだろう。明け方まで残る月が西に傾きながら夜が明けていく時分、庭の玉のように美しい萩の上に数多く置き結んだ露のひとつひとつに、月の光がうつってしまったことだなあ。夜が明けると月の光は弱々しくなっていくのだが、その光がさながら朝露に移った(=映った、光が映じた)かのように、秋萩の上の数々の露が光っている。その露とてきっと、日が高くなればやがて儚く消えてしまうのだ。うつろいゆくひとときをとらえて詠み込む、いかにも京極派らしい歌である。


同じく玉葉集より、もう一首、

 朝露をよみ侍りける        入道前太政大臣

 入り残る 雲間の月は 明けはてて なほひかりある 庭の朝露

 (『玉葉和歌集』、巻第四、秋歌上)


こちらも前の歌と同様の趣意を詠んでいる。まだ沈まずに残っている雲の間にある月は、すっかり夜が明けて弱々しくなって、よりいっそう光り輝いているのは、庭に置き結んだ朝露のほうだなあ。もう少し敷延すれば:夜が明けてしまっても雲間の月は「なほひかりある」(それでもまだ光り輝いている)が、それにもまして「なほひかりある」(よりいっそう光っている)のは、庭の朝露のほうだよ。「なほ(猶)」という語をどちらの意に取るかによって、「ひかりある」は月にも、朝露にも、それぞれに掛かるように読める。いずれにしても、片や恨めしく空に残りつつやがては沈み行き、片や今は光り勝っていても日が高くなるにつれ程なく消えて行く。どちらも儚い情景だ。


最近はすっかり秋めいて朝晩は肌寒く、もし朝早くに起き出して散歩でもしてみれば、まさに上の二首のようなかりそめの美しい情景を目にすることが出来るかもしれない。いやもちろんそんな期待は、朝寝坊の身にとってはただもう徒(あだ)な願い、儚い夢だったかもしれないが。
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by junitchy | 2006-10-15 10:41 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 09月 16日
秋のおとづれ
先月、岩波のCD-ROMで『二十一代集』を購入。「古今集」から「新古今集」までの八代集については岩波の新古典文学体系にも入っており比較的手軽に入手出来るが、それ以降の「新勅撰和歌集」から「新続古今和歌集」までの十三代集はなかなか入手しづらい。中世和歌全般を手軽に読んでみたいと思っている身にとってはとても心もとない限りである。角川の「新編国歌大観」という手もあるが、大き過ぎる体裁にごく小さな文字ではとても読書に堪えないし、かなり高価だ。

そこで、ひとまずCD-ROMを買ってみたわけである。だが、和歌の語句検索や作者名の確認などには大変便利だが、和歌本文をじっくりと吟味したい、という点に関していえば、もちろん期待していたわけではないしそれを分かった上で購入したのであるが、やはり、難しいものがある。CDには和歌本文のテクストデータの他に「和歌検索システム」というソフトが付属しており(なおWindows版のみ:Macユーザである私はVirtual PC上で使用している)、この「ブラウズ」モードで一首ずつ表示していくと、何とも、読み辛い。表示フォントにはMS明朝などを指定すると画面上での表示は安定するのだが、書体そのものが気に入らない(笑)
内容的には『風雅和歌集』の次の『新千載集』や、室町時代中期に撰された二十一代集最後の『新続古今集』など、とても面白そうなのに、それがちゃんと読めない(読もうという気を削がれる)ために却って欲求不満が溜まってしまう。

仕方なく、というか結局、古本を購入してしまった。便利なサイト「日本の古本屋」で検索し、岩手にある古本屋から通販。「校註国歌大系」の第五〜八巻、『十三代集、一〜四』、昭和三年および四年の刊行。以前から持っている『夫木和歌抄』と同じ大系本である。
もちろん校異などの点では出来るだけ新しい校本の本文の方が望ましいだろうが、それよりもまずは本文を読み進める(気にさせてくれる)ことのほうが、今は重要なのだ。

なお、その21番目の勅撰集『新続古今(しんしょくこきん)和歌集』は、室町6代将軍足利義教の発意により、後花園天皇勅命、飛鳥井雅世撰で1439年完成。ではその『新続古今和歌集』より一首:


  新玉津島の社三十首の歌に       是心院入道前関白左大臣(二条師良)

此の夕 風より秋の 音づれを 荻のうは葉に 聞きぞ初めつる

(『新続古今和歌集』、巻第四、秋歌上)


全体の句意としては、秋の訪れを夕風になびく萩の葉音のうちに聞き取ったよ、という感じであろう。「訪れ」はそもそも「音連れ」というのが原意らしい。「秋のおとづれ」は「秋の訪れ」というより「秋の音がすること、秋が音をたてていること」という、より原意に近い意味に取ったほうが「聞き初めた(今年初めて耳にした)」の語が利いてくるし、歌全体の趣意に適うであろう。秋は、その風が荻の上葉を揺らす時の微かな音とともにやって来るのだ。題材としてはありきたりで何気ないものかもしれないが、その言葉遣りはなかなか面白く、それによって見どころのある歌になっているように思われる。
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by junitchy | 2006-09-16 16:59 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 09月 10日
京極派私撰四十五首
学生時代に色々な文献から京極派和歌を集めて、自分の気に入った歌を選んでみたことがあったということは以前書いた。今回、そのごくささやかな私撰四十五首を、ここに掲示してみようと思う。

『国歌大観』や『群書類従』所収の諸々の歌合・私家集と『風雅和歌集』とから歌を選び(確か当時は『玉葉和歌集』は見れなかったはず)、四季の歌のなかに雑歌をはさみこむような格好で並べている(ただし、今改めて入力するに際して並び順を若干変更した)。実際には京極派歌人とは呼べない人の歌も若干入っている。
本文は、読みやすさを考慮して適宜送り仮名を補った他は、原文の文字遣いのままにした。


     *


しらみ行く 霞の上の よこ雲に あり明ほそき 山のはの空   (九条左大臣女)

しのゝめの やゝあけ過ぐる 山のはに かすみ残りて 雲ぞ別るゝ   (従二位為子)

薄曇 霞て匂ふ 花の上を ちらさぬ程に 過る春風   (従二位兼行)

降りけりな をとにはたてぬ 春雨の みれば草葉の 上ぞぬれゆく   (伏見院)

くれかたを 匂ふ日かげの うつろひて 風しづかなる 春の夕ばへ   (前大納言経親)

何となく 庭の梢は かすみふけて 入るかたはるゝ 山のはの月   (永福門院)

夕日さす 峯はみどりの うすくみえて かげなる山ぞ わきて色こき   (徽安門院)

花の上の 暮行く空に ひびき来て 声に色ある 入逢の鐘   (伏見院)

花の上に しばしうつろふ 夕づく日 入るともなしに 影消えにけり   (永福門院)

しづみはつる 入日のきはに あらはれぬ かすめる山の 猶奥の峯   (前大納言為兼)

あふちさく 梢に雨は やゝはれて 軒のあやめに 残る玉水   (経親)

晴れそむる 月にぞみゆる 五月雨の 名残の軒に 落つる玉水   (伏見院新宰相)

枝よはき 若葉の竹は 庭にふして 雨こまかなる 夏の夕ぐれ   (従三位親子)

ほかはなほ 入日の名残 見えながら 松蔭くらき 庭の夕ぐれ   (延政門院新大納言)

かすみ匂ふ 夕日の空は のどかにて 雲に色ある 山のはの松   (花園院)

うつりきゆる をかべのゆふ日 かげさびて みどりいろこき 松のむらだち   (院冷泉)

真木の戸も さゝで涼しき 宵の間の 簾に透て ゆく蛍哉   (為相)

置渡す 露の光も 月の色も 長閑に更る 浅茅生の庭   (伏見院新宰相)

深にけりな まだうたゝねに みる月の 影のすだれに 遠く成り行く   (儀子内親王)

にほひしらみ 月のちかづく 山のはの 光によはる いなづまの影   (伏見院)

しらみまさる 空のみどりは うすくみえて あけ残る星の 数ぞ消え行く   (院一条)

やゝひほふ 朝日の影を 峯にこめて 霧にきえゆく 秋の山のは   (伏見院)

うすきりの はるゝ朝気の 庭みれば 草にあまれる 秋の白露   (永福門院)

しほれふす 枝吹返す 秋風に とまらず落つる 荻の上露   (九条左大臣女)

燈は あまよの窓に かすかにて 軒のしづくを 枕にぞ聞く   (徽安門院)

山もとや 雨はれのぼる 雲の跡に けぶり残れる さとの一むら   (藤原為基)

いそげども まだ山見えぬ 波の上に 雲を隣と 向ふ舟人   (冷泉為相)

庵ちかき つま木の道や 暮ぬらん 軒ばにくだる 山人の声   (為相)

谷かげや 真柴の煙 こくみえて 入逢くらき 山のした道   (親子)

山風は 高ねの松に 声やみて 夕の雲ぞ 谷にしづまる   (尊氏)

雁のなく 夕の空の うす雲に まだ影みえぬ 月ぞほのめく   (永福門院内侍)

ま荻ちる 庭の秋風 身にしみて 夕日のかげぞ かべに消え行く   (永福門院)

影うすき 月みえそめて 庭の面の 草に虫なく 宿の夕暮   (伏見院新宰相)

月影の すみのぼる跡の 山ぎはに たゞ一なびき 雲の残れる   (従二位為子)

夜烏は たかき梢に なきおちて 月しづかなる あかつきの山   (光厳院)

まどしらむ 軒ばの空は 明けそめて 枕のうへに きゆる月かげ   (伏見院)

月もみず 風も音せぬ 窓の中に 秋をおくりて むかふともし火   (後伏見院)

ひびき残る とほぢの鐘は かすかにて 霜にうすぎる 曙のそら   (光厳院)

朝日さす 軒ばの雪は かつ消て たるひの末に 落つる玉水   (前大僧正道意)

霜さむき 朝けの山は うすぎりて こほれる雲に もる日影かな   (祝子内親王)

風ふかぬ 雪げの空は さえとぢて 雲閑かなる 冬の夕暮   (九条左大臣女)

さえかへる 空には風の 音もせで しづかにこほる 雲の色かな   (兼行)

今しはや 霜をくらしも さよ更けて 星の光の 窓にさやけき   (為相)

鐘のをとを ひとつ嵐に 吹こめて 夕暮しほる 軒の松風   (伏見院)

吹さゆる 嵐のつての 二声に 又はきこえぬ あかつきの鐘   (為兼)
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by junitchy | 2006-09-10 15:36 | 和歌逍遥 | Comments(0)