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2012年 06月 24日
ことの葉の花たちばな

ことの葉の花たちばな
(2010年6月〜)


「本歌取り」ーーーそれは一つの技法、つまり、かつて古典の授業で(ことによると単に暗記すべき一事項として)学んだであろうように、『新古今和歌集』の時代に大いにもてはやされた、和歌的技法である。

簡単におさらいしておくと、先行する古歌、特に『古今』『後撰』『拾遺』の三代集や『伊勢物語』『源氏物語』などに所収の歌を対象にして、その歌の句の一部をそのまま使い、元歌の持つ内容や情景を巧みに利用しつつ新たな歌に仕上げるというものだ。

そう、確かに技法には違いない。実際、それを体系化した藤原定家は、本歌取りにおける数々の「作法」を定めているし、そういった様々な決まりごとに規制されるかたちで、それ以降の詠歌は型にはまっていったとすら言われているのであるから。

だが、そういった見地から離れて、古典文学要覧のある一項目を単に占めることになったのであろうような一遍通りの知識から、それを救い出すべきなのだ。

だからこそ敢えてこう言おう、本歌取り、それはイマジネーションの連鎖の謂いであり、そこで行なわれているのは、イメージの重層化、トランスポジシヨン(転移)であり、優れて創造的な営みなのである、と。

   *

ここに一首の和歌がある。『古今和歌集』に所収の、人口に膾炙した歌であり、それこそ国語の教科書にも載るほどの、古来つとに名高いものだ。誰の作なのか伝わらないその歌は、爾来、本歌取りなどという枠を遥かに超えて、既にして一つの伝統を、そしてそれだけで既に一つの文化を、形作っているとすら言えよう。

五月(さつき)待つ
 花たちばなの香をかげば
  昔の人の袖の香ぞする

 初夏の五月を待って咲き初むる花たちばなの香りをかいでみると、
 かつて見知ったあの人が袖に焚きしめていた、あの香りがするんだ。

『古今和歌集』巻第三、夏歌、読み人知らず


この、何気なく詠まれたかのごとき一首。何故これほどまでに、この歌は後世に影響を与え続けたのだろう。

先ず、この歌は『伊勢物語』の一挿話を生んだ。「男」は、その香りによって、かつて知った女であることに気付く。そして男は、それとなくそのことを知らせるために、女にかの歌を読み掛けるのだーー「昔の人の袖の香ぞする」と。すると女は、男の許を去ってしまった我が身を恥じて、尼になってしまったという。

また、『源氏物語』の「花散里」の巻で、源氏は麗景殿女御の邸宅を訪れる。初夏の夜、二十日の月が昇って来る時分、たちばなの花の香りが仄かに漂うなか、懐かしく昔語りを交わしていると、近くでほととぎすが鳴く。源氏は自らをそのほととぎすに準(なずら)えて、『万葉集』所収の大伴旅人「橘の花散る里の霍公鳥(ほととぎす) 片恋しつつ鳴く日しぞ多き」をも踏まえつつ、

橘の香をなつかしみ
 ほととぎす
  花散る里をたづねてぞとふ

 昔を思い出せるという橘の香りに心惹かれて、
 ほととぎすは花の散ったこのお邸を訪ねて来たのです。

と詠み掛ける。
成立から100年経った時点において既に『古今和歌集』は現代の我々が享受するのとほとんど同じ意味で<古典>になっており、『源氏物語』の成立にとっても無くてはならないもの、通奏低音のように『源氏』を下から支えるものとなっていた。この初夏の宵の昔語りの場面でも、花たちばなの古歌の趣きを優美に敷衍して、豊かなニュアンスを与えている。

紫式部とともに中古三十六歌仙に数えられる女流歌人、相模の次の一首でも、懐旧の情と花たちばなの香りとは、即座に交-感(correspond)する。

さみだれの空なつかしく匂ふかな
 花たちばなに風や吹くらむ

 五月雨の空には、懐かしく感じさせる香りが漂っているよ。
 さては、花たちばなのもとに、風が吹いているのでしょうか。

 『後拾遺和歌集』巻第三、夏


そして『源氏物語』から美的感覚の点で多大なる薫陶を受けたといえる『新古今』時代の歌人たちによってそれはさらに深化され、確立されることになる。

俊成卿女の歌、

橘の匂ふあたりのうたたねは
 夢もむかしの袖の香ぞする

 たちばなの香の漂っているあたりでうたた寝をすると、
 その夢のなかでも、昔の人の懐かしい袖の香りがするのです。


そしてまた、式子内親王の歌、

かへり来ぬ
 むかしを今と思ひ寝の
  夢の枕に匂ふたちばな

 もう還ってくることのない昔を、今のことのように思い出しながら眠りに落ちて、
 その夢の枕元に匂い漂うのは、たちばなの香り。

『新古今和歌集』巻第三、夏歌


そうしてそれは、室町時代、二十一代集の掉尾を飾る『新続古今和歌集』の撰者、飛鳥井雅世が自ら選んだ一首へと連綿と続いていくのである。

言の葉の
 花たちばなにしのぶぞよ
  代々のむかしの風の匂ひを

 歌に詠まれた花たちばなをよすがとして、懐かしく思うのだよ、
 過ぎ去った様々な時代から吹き寄せてくる、花たちばなの香るあの風の匂いを。

 『新続古今和歌集』巻第三、夏歌

古今和歌集から遥か500年という歳月を隔てて、昔を偲ぶ花橘の古歌を偲びつつ、昔そのものに想いを馳せているのである。

   *

さて私は、実際の花たちばなを知らないし、その花を見たことがなく、その香りをかいだこともない。それなのに何故、私はこの花、昔のことに思いを馳せるよすがとしてのこの花の香に、かくまでも惹かれるのか。

それがまさに、言葉というものの営みである。そしてそれは文化というものの営みそのものなのだ。

名の知れぬ誰かのほんの気まぐれのような発想が、その後の歌詠みに如何に多大なる影響を与えたことか。このことはいくら強調しても十分ではないであろう。そして文化の継承ということが起こるとすれば、それは先ずは「読む」ことから始まるのである。我々は、つまり、文化の担い手としての我々は、もっと古典を読まねばならない。

だからこれからもずっと、例えば「花たちばな」の歌に、触発され続けなければならないのだ。その香を夏の風の中に仄かに感じ取りながら。そしてまた、古代から吹き寄せる「ことの葉の風」に、身を委ねながら。


(〜2012年6月)












 
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by junitchy | 2012-06-24 01:37 | 和歌逍遥 | Comments(0)