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2011年 06月 27日
アナログ/デジタル
かつて、大学の一般教養の科目で履修した数学の授業で期末に出された課題は、テキストの練習問題を解く、または、「コンピューターについて」という題目でレポート提出、というものだった。理工系の先生が文系の学生のために便宜を図ってくれたものだろう。私もその題目でレポートを書いた。
そのレポート(というか小論文)も、そのための下書き・草稿の類いも、私の手許にはもう残っていないが、20年近く経った今でもその内容は大体覚えている。

その中で私は先ず、アーサー・C・クラークの短編「F IS FOR FRANKENSTEIN(邦題:FはフランケンシュタインのF)」を取り上げた。1950年代に書かれたこの近未来SFを読んだのは中学か高校生の頃だったろうか。その短編集の文庫本も今は手元に無いのですぐには読み返せないのだが、その大雑把なストーリーはこうだ(ったはずだ):世界各地がコンピュータのネットワークで結ばれた近未来社会で、ある日そのネットワークで原因不明の不具合が全世界的に発生する。人の大脳と各器官とを結ぶ末梢神経ネットワークになぞらえられるそのコンピュータネットワークは、突如として「意識」として「目覚め」た。そしてその幼い<組織体>が、ほんの手始めに、己れの能力を試すように、ささいな「悪戯」を働いたのだった…。

そして私はこう述べた。つまり、デジタル的なるものが目指すところのものは結局のところアナログ的なるもの、つまり如何にしてアナログ的なるものを手に入れるか、ということであり、コンピュータが到達せんとするものは、究極的には人間そのもの、つまり如何にして人間そのものに近づくか、ということである、と。

当時からアナログとデジタルとは対立項として語られて来たが、その実、その究極においてはその両者は一致する、ということなのだ。非ユークリッド幾何学にあっては、平行線は無限遠において交わるように。私は当時、そのような思考、つまり単純な二項対立を乗り越えるような、もしくは無効化するような思考法を好んでいた。
余談だが、理系・文系とかいう分け方もまたそのようなものだと思っていた。究極的には、数学的思考と哲学的思索とは、互いにとても近くにいるのである。

最も数値化が進んだものは、全く数値化がされていない状態に近づく。それを真似る、擬態する。それはミミック(mimique)である。それはほとんど(quasi)-生である。

反対に、生物学的・生理学的な分析が進めば進むほど、それらはプログラムとして読み取られるべくして提示されていることが明らかになってくるのであろう。

人間の(=という)プログラム、前以って書かれたもの、の解析が目指すもの、そして自動計算機プログラムが到達せんとするもの、それは、人間の目的にして終焉(Les fins des hommes)である。
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by junitchy | 2011-06-27 00:32 | 下書覚書 | Comments(0)
2011年 06月 25日
ブログ下書き
書きたいと思うことは日々、多々ある。それらは幾ばくかの断章であり、短い、断片的な修辞であり、ある種のフレーズのパラフラーズである、云々。それらのなかで、辛うじて存らえることの出来たものだけが現に存らえているのだ。

実際に走り書き(と言っても実際はMacかiPhoneかで文章をタイピングしているのだが)してみて、そこから少しずつ書き足して、だがしばらく放置して、その後再び取り出して…、読み直し、全面的に書き直し、順序の入れ替え、章の組み替え、語句の差し替え、削除、云々、実際のところ、こうして数ヶ月以上に渡って一つの文章を書き継ぐこともある。

それらは遅々とした進捗で完成への途上にある。ヴァレリーに言わせれば「完成とは、推敲」なのであり、一つの完成とは或る何らかの外的な制約(例えば原稿の締め切り)によってもたらされるに過ぎないのである。そして、そのような制約の課せられることのないこれらの我らが文章は、半ば打ちやられ半ば忘却されたまま、推敲を受けるべく待機して、ある種の完成の到来を待っているのだ。

以上のことを口実して、今まで何かしらの留保点があったために公表に至らなかった幾つかの文章を、若干体裁を整えて、場合によっては加筆もしつつ、少しずつ、公開してみることにしよう。




 
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by junitchy | 2011-06-25 17:00 | 下書覚書 | Comments(1)