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2006年 10月 18日
二眼レフ
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"A portrait (Rolleiflex 3,5 F)"
CONTAX ST, Makro-Planar 2,8/60mm

     *

最近は、Rolleiflexを持ち出していない。もう2年以上使っていないかもしれない。2000年1月に購入してからしばらくは、あちこちに連れ回していたのだが。
先日、このローライで撮影したモノクロを何枚かスキャンしていた。それを今にして見てみると、最近はこういうのを撮ろうという気が起こらないなあ、と思うものも多い。でもまた久々に、街中のスロースナップなども撮ってみたくもなる。

スキャンした中から、一枚:

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"狛犬" 
Rolleiflex 3,5 F (Planar 1:3,5 / f=75mm)
ILFORD 100 DELTA; 2001/3/3

都内某所でのスナップ。何というか、今見ても身につまされる思いがする。

この界隈をスナップ撮影しながら歩いた時に撮影したフィルム1本(全12カット)を、撮影したそのままの順番で、ウェブサイトに公開してみようと以前考えていたことがあった。ブローニーフィルム1本をそのまま、12カットを全て公開する、というシリーズにしようと考えたのだ。いろいろ準備もしていたが結局企画倒れ、お蔵入りとなってしまったのだが、2002年2月11日に保存したその『Douze images(12のイマージュ)』のための「能書き」に、わたしはこんな言葉を書き連ねている:


「フィルムがずっと高価になれば、撮影者と写真との関係はもっと良くなると思う」

…或る映画監督のこの言葉が、頭から離れなかった。

写真を本格的に始めたとき、この言葉を座右の銘にしようと決めたのではなかったか。

ローライフレックスと、ロールフィルム1本、12枚。

その一枚目から、順番に、そのままで一つの「作品」として仕上げること。

テクニック、タイミング、そして「捉える」力…そのすべてが揃わなければ成り立たない。

そんな、たった1本のロールフィルム。それが、自分の究極の目標だ。


…何だか自分で読み返していてとても気恥ずかしいが、こんなことを考えていた時もあったのだと懐かしい。今では、同じようなカットを露出や構図を微妙に変えて何枚も撮り、あとで良いのを選ぶような撮り方をするのが至って当り前なってしまった。が、もし、ここで引用した或る映画監督の言葉(それを私は或るカメラ雑誌の記事で読んだような気がするが、詳細は覚えていない)のように、フィルムが大変高価だったなら、決してそんな撮り方はせず、一枚一枚をもっと大切に撮影するだろう。二度と取り返しの付かない一回のシャッター、絶望の取捨選択としてのシャッターというものに、もっと重みを見出すであろう。云々。

今度久々にローライでも持ち出して、初心に返ったつもりで何か撮ってみようか。
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by junitchy | 2006-10-18 23:47 | 写真折節 | Comments(2)
2006年 10月 15日
朝の月、朝の露
西園寺兼実(さいおんじかねざぬ)が秋の朝露を詠んだ歌を。


 (題:草花露)          入道前太政大臣

 数々に 月の光も うつりけり 有明の庭の 露の玉萩

 (『玉葉和歌集』、巻第四、秋歌上)


これはとても詩的な情景だ。「数々に」というのはつまり露のひとつひとつに、ということだろう。明け方まで残る月が西に傾きながら夜が明けていく時分、庭の玉のように美しい萩の上に数多く置き結んだ露のひとつひとつに、月の光がうつってしまったことだなあ。夜が明けると月の光は弱々しくなっていくのだが、その光がさながら朝露に移った(=映った、光が映じた)かのように、秋萩の上の数々の露が光っている。その露とてきっと、日が高くなればやがて儚く消えてしまうのだ。うつろいゆくひとときをとらえて詠み込む、いかにも京極派らしい歌である。


同じく玉葉集より、もう一首、

 朝露をよみ侍りける        入道前太政大臣

 入り残る 雲間の月は 明けはてて なほひかりある 庭の朝露

 (『玉葉和歌集』、巻第四、秋歌上)


こちらも前の歌と同様の趣意を詠んでいる。まだ沈まずに残っている雲の間にある月は、すっかり夜が明けて弱々しくなって、よりいっそう光り輝いているのは、庭に置き結んだ朝露のほうだなあ。もう少し敷延すれば:夜が明けてしまっても雲間の月は「なほひかりある」(それでもまだ光り輝いている)が、それにもまして「なほひかりある」(よりいっそう光っている)のは、庭の朝露のほうだよ。「なほ(猶)」という語をどちらの意に取るかによって、「ひかりある」は月にも、朝露にも、それぞれに掛かるように読める。いずれにしても、片や恨めしく空に残りつつやがては沈み行き、片や今は光り勝っていても日が高くなるにつれ程なく消えて行く。どちらも儚い情景だ。


最近はすっかり秋めいて朝晩は肌寒く、もし朝早くに起き出して散歩でもしてみれば、まさに上の二首のようなかりそめの美しい情景を目にすることが出来るかもしれない。いやもちろんそんな期待は、朝寝坊の身にとってはただもう徒(あだ)な願い、儚い夢だったかもしれないが。
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by junitchy | 2006-10-15 10:41 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 10月 14日
オルフェ
先日、ある書店にて、普段ならば全く気に留めずに通り過ぎているはずなのだが、名作映画の格安DVDが数多く陳列されている中で、ふと『オルフェ』というタイトルが目に留まった。これはほとんど偶然というか或る種の巡り合わせでしかないのだろうが、次の瞬間にはその薄っぺらいパッケージを手に取り、そしてそのまま購入してしまった。定価500円也。

このジャン・コクトーの名作を、恐らく過去に一度だけ見たことがあったはずだ。たしか高校生か大学に入る前の頃、テレビで年末年始の深夜の時間帯に映画ばかり続けて放送していた中でやっていたのだと思う。もしかしたらビデオに録画していたかも知れない。ただし、ストーリーとかは全く覚えておらず、映像についても全く記憶がなかった。それを先ほどPowerBook G4にて鑑賞した。

Macで映画を見るのはタルコフスキーの『サクリファイス』のDVDを買った2004年11月の時以来。何度か他所で書いたことがあるが、わたしは映画はほとんど観ないほうで、映画館に封切り映画を観に行くこともなく、レンタルビデオ(DVD)を借りてくることもないし、そもそもレンタル屋の会員でもない。ごくごく稀に、観てみたくなるものがあるくらいである。

今回は実に久し振りの映画鑑賞なのであるが、この『オルフェ』の美しい映像に、やはり見入ってしまった。とても手の込んだカメラワークに思わずうなってしまう。
生と死の境を往き来するという古代的・神話的な(つまりオルフェウスの)モチーフが、車、バイク、ラジオ、群衆、警官、裁判所など「近代的」装置を多用しつつ巧みに語られていくのが大変興味を惹く。"La mort"(死)と呼ばれる冥界の女王は、冥界の命令に勝手に反したかどで法廷で裁かれ、執行猶予付き有罪との判決を受ける。さらに、死んだオルフェを冥界から連れ戻す(生き返らす)という「越権行為」をしたために最後に冥界の「作業員」に連行されるところで映画は終わる。鏡に映じた「あちら側」の世界というものに対するロマンティックないし感傷的な思いというものとは裏腹な、なんとも現世的というか近代的な冥界ではないだろうか。
死という掟、つまり不可侵かつ不可逆の掟を「破る」という、不可能性そのものであるところの越権行為、それはおそらく、古来、詩人のもとでしか可能ではなかったのだろう。死と詩人、つまり女王とオルフェ。二人はそもそもの最初からお互いを惹き合っているのである。たとえ、永遠に引き裂かれようとも。

いずれにしても、とても面白かった。たまに映画を観てみるのもいいものだ。格安で手軽に購入できるということで映画作品を観る機会が増えるというのはありがたいものである。特にわたしのような映画不精にとっては。
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by junitchy | 2006-10-14 16:50 | 冗語縷々 | Comments(0)