<   2006年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧

2006年 09月 16日
秋のおとづれ
先月、岩波のCD-ROMで『二十一代集』を購入。「古今集」から「新古今集」までの八代集については岩波の新古典文学体系にも入っており比較的手軽に入手出来るが、それ以降の「新勅撰和歌集」から「新続古今和歌集」までの十三代集はなかなか入手しづらい。中世和歌全般を手軽に読んでみたいと思っている身にとってはとても心もとない限りである。角川の「新編国歌大観」という手もあるが、大き過ぎる体裁にごく小さな文字ではとても読書に堪えないし、かなり高価だ。

そこで、ひとまずCD-ROMを買ってみたわけである。だが、和歌の語句検索や作者名の確認などには大変便利だが、和歌本文をじっくりと吟味したい、という点に関していえば、もちろん期待していたわけではないしそれを分かった上で購入したのであるが、やはり、難しいものがある。CDには和歌本文のテクストデータの他に「和歌検索システム」というソフトが付属しており(なおWindows版のみ:Macユーザである私はVirtual PC上で使用している)、この「ブラウズ」モードで一首ずつ表示していくと、何とも、読み辛い。表示フォントにはMS明朝などを指定すると画面上での表示は安定するのだが、書体そのものが気に入らない(笑)
内容的には『風雅和歌集』の次の『新千載集』や、室町時代中期に撰された二十一代集最後の『新続古今集』など、とても面白そうなのに、それがちゃんと読めない(読もうという気を削がれる)ために却って欲求不満が溜まってしまう。

仕方なく、というか結局、古本を購入してしまった。便利なサイト「日本の古本屋」で検索し、岩手にある古本屋から通販。「校註国歌大系」の第五〜八巻、『十三代集、一〜四』、昭和三年および四年の刊行。以前から持っている『夫木和歌抄』と同じ大系本である。
もちろん校異などの点では出来るだけ新しい校本の本文の方が望ましいだろうが、それよりもまずは本文を読み進める(気にさせてくれる)ことのほうが、今は重要なのだ。

なお、その21番目の勅撰集『新続古今(しんしょくこきん)和歌集』は、室町6代将軍足利義教の発意により、後花園天皇勅命、飛鳥井雅世撰で1439年完成。ではその『新続古今和歌集』より一首:


  新玉津島の社三十首の歌に       是心院入道前関白左大臣(二条師良)

此の夕 風より秋の 音づれを 荻のうは葉に 聞きぞ初めつる

(『新続古今和歌集』、巻第四、秋歌上)


全体の句意としては、秋の訪れを夕風になびく萩の葉音のうちに聞き取ったよ、という感じであろう。「訪れ」はそもそも「音連れ」というのが原意らしい。「秋のおとづれ」は「秋の訪れ」というより「秋の音がすること、秋が音をたてていること」という、より原意に近い意味に取ったほうが「聞き初めた(今年初めて耳にした)」の語が利いてくるし、歌全体の趣意に適うであろう。秋は、その風が荻の上葉を揺らす時の微かな音とともにやって来るのだ。題材としてはありきたりで何気ないものかもしれないが、その言葉遣りはなかなか面白く、それによって見どころのある歌になっているように思われる。
[PR]

by junitchy | 2006-09-16 16:59 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 09月 10日
京極派私撰四十五首
学生時代に色々な文献から京極派和歌を集めて、自分の気に入った歌を選んでみたことがあったということは以前書いた。今回、そのごくささやかな私撰四十五首を、ここに掲示してみようと思う。

『国歌大観』や『群書類従』所収の諸々の歌合・私家集と『風雅和歌集』とから歌を選び(確か当時は『玉葉和歌集』は見れなかったはず)、四季の歌のなかに雑歌をはさみこむような格好で並べている(ただし、今改めて入力するに際して並び順を若干変更した)。実際には京極派歌人とは呼べない人の歌も若干入っている。
本文は、読みやすさを考慮して適宜送り仮名を補った他は、原文の文字遣いのままにした。


     *


しらみ行く 霞の上の よこ雲に あり明ほそき 山のはの空   (九条左大臣女)

しのゝめの やゝあけ過ぐる 山のはに かすみ残りて 雲ぞ別るゝ   (従二位為子)

薄曇 霞て匂ふ 花の上を ちらさぬ程に 過る春風   (従二位兼行)

降りけりな をとにはたてぬ 春雨の みれば草葉の 上ぞぬれゆく   (伏見院)

くれかたを 匂ふ日かげの うつろひて 風しづかなる 春の夕ばへ   (前大納言経親)

何となく 庭の梢は かすみふけて 入るかたはるゝ 山のはの月   (永福門院)

夕日さす 峯はみどりの うすくみえて かげなる山ぞ わきて色こき   (徽安門院)

花の上の 暮行く空に ひびき来て 声に色ある 入逢の鐘   (伏見院)

花の上に しばしうつろふ 夕づく日 入るともなしに 影消えにけり   (永福門院)

しづみはつる 入日のきはに あらはれぬ かすめる山の 猶奥の峯   (前大納言為兼)

あふちさく 梢に雨は やゝはれて 軒のあやめに 残る玉水   (経親)

晴れそむる 月にぞみゆる 五月雨の 名残の軒に 落つる玉水   (伏見院新宰相)

枝よはき 若葉の竹は 庭にふして 雨こまかなる 夏の夕ぐれ   (従三位親子)

ほかはなほ 入日の名残 見えながら 松蔭くらき 庭の夕ぐれ   (延政門院新大納言)

かすみ匂ふ 夕日の空は のどかにて 雲に色ある 山のはの松   (花園院)

うつりきゆる をかべのゆふ日 かげさびて みどりいろこき 松のむらだち   (院冷泉)

真木の戸も さゝで涼しき 宵の間の 簾に透て ゆく蛍哉   (為相)

置渡す 露の光も 月の色も 長閑に更る 浅茅生の庭   (伏見院新宰相)

深にけりな まだうたゝねに みる月の 影のすだれに 遠く成り行く   (儀子内親王)

にほひしらみ 月のちかづく 山のはの 光によはる いなづまの影   (伏見院)

しらみまさる 空のみどりは うすくみえて あけ残る星の 数ぞ消え行く   (院一条)

やゝひほふ 朝日の影を 峯にこめて 霧にきえゆく 秋の山のは   (伏見院)

うすきりの はるゝ朝気の 庭みれば 草にあまれる 秋の白露   (永福門院)

しほれふす 枝吹返す 秋風に とまらず落つる 荻の上露   (九条左大臣女)

燈は あまよの窓に かすかにて 軒のしづくを 枕にぞ聞く   (徽安門院)

山もとや 雨はれのぼる 雲の跡に けぶり残れる さとの一むら   (藤原為基)

いそげども まだ山見えぬ 波の上に 雲を隣と 向ふ舟人   (冷泉為相)

庵ちかき つま木の道や 暮ぬらん 軒ばにくだる 山人の声   (為相)

谷かげや 真柴の煙 こくみえて 入逢くらき 山のした道   (親子)

山風は 高ねの松に 声やみて 夕の雲ぞ 谷にしづまる   (尊氏)

雁のなく 夕の空の うす雲に まだ影みえぬ 月ぞほのめく   (永福門院内侍)

ま荻ちる 庭の秋風 身にしみて 夕日のかげぞ かべに消え行く   (永福門院)

影うすき 月みえそめて 庭の面の 草に虫なく 宿の夕暮   (伏見院新宰相)

月影の すみのぼる跡の 山ぎはに たゞ一なびき 雲の残れる   (従二位為子)

夜烏は たかき梢に なきおちて 月しづかなる あかつきの山   (光厳院)

まどしらむ 軒ばの空は 明けそめて 枕のうへに きゆる月かげ   (伏見院)

月もみず 風も音せぬ 窓の中に 秋をおくりて むかふともし火   (後伏見院)

ひびき残る とほぢの鐘は かすかにて 霜にうすぎる 曙のそら   (光厳院)

朝日さす 軒ばの雪は かつ消て たるひの末に 落つる玉水   (前大僧正道意)

霜さむき 朝けの山は うすぎりて こほれる雲に もる日影かな   (祝子内親王)

風ふかぬ 雪げの空は さえとぢて 雲閑かなる 冬の夕暮   (九条左大臣女)

さえかへる 空には風の 音もせで しづかにこほる 雲の色かな   (兼行)

今しはや 霜をくらしも さよ更けて 星の光の 窓にさやけき   (為相)

鐘のをとを ひとつ嵐に 吹こめて 夕暮しほる 軒の松風   (伏見院)

吹さゆる 嵐のつての 二声に 又はきこえぬ あかつきの鐘   (為兼)
[PR]

by junitchy | 2006-09-10 15:36 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 09月 02日
夏の暮
近年に比べると短いと感じられるような夏が過ぎ去ろうとしている。いや反対に、ここ数年の夏が長く暑過ぎだったのだ思われる。私の子供の頃はいつもこんな感じだったような気がする。
いずれにしても八月末から夜風の涼しさが感じられ、蝉の声が秋の虫の声に交替してきて、季節の変わり目がはっきりと感じられる。上空の雲も高い秋の空だ。

また今頃の時節に合う歌を:

   〔夏歌の中に〕         式部卿恒明親王
 暮はつる 梢にせみは 声やみて やゝ影みゆる 月ぞ涼しき
 (『風雅和歌集』、巻第四、夏歌)

 すっかり日が暮れてしまった梢に、蝉の声は止んで、 
 徐々にその光が見えてくる月がいかにも涼しい。

夏の暮の歌。蝉の声が止む、というのはとても印象的な場面である。ジジジ…と大きな声で鳴いていたのが、ふと鳴きやむ。その時、一瞬の静寂のあと、周りから聞こえてくるであろうのはきっと、秋の虫の静かに鳴き始めている声なのだ。そして梢には月の光が涼しげに照り映えている。秋はもうそこまで来ている。


もう一首:


 夕日さす 梢の色に 秋見えて そともの森に ひぐらしの声
 (『光厳院御集』、二十七)

 夕日がさす梢の赤々とした色に秋の気配がほの見えて、
 裏の森からはひぐらしの鳴く声がする。

差し込んでくる斜陽が梢を赤く染め、さながら紅葉のような気色になる。夏の終わりに、ふと秋を先取りして感じ取ることができた瞬間。すると、いかにも涼しげに、ひぐらしの声が裏の森から聞こえてくるのである。ああ、夏も終わったのだなあ、と実感させてくれるように。


こうした季節のうつろい、というか、うつろう季節を実感させてくれるわずかなひととき、ふとした光景を、京極派歌人は鋭い感受性でとらえ、歌に詠むことに長けている。つまり、儚いもの、遷ろいゆくもの、僅かなもの、仄かなもの、等々への志向(intention)=嗜好(preference)。

『風雅和歌集』が成立したのは南北朝時代のさなかであり、争乱の小康状態のなかで辛うじて完成したものだったが、その僅か一年後には光厳院らは幽閉され、京極派歌壇も壊滅してしまうことになるのである。儚い時代にあって、まさに儚さそのものの美を体現していると言えようか。
[PR]

by junitchy | 2006-09-02 21:50 | 和歌逍遥 | Comments(0)