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2006年 04月 29日
暮春
例年では連休中には初夏のような気候になって季節の移ろいを実感出来るのだが、ここのところ好天が続かず気温もあまり上がらない。桜が散るとそれと交代するようにツツジが咲き出すが、最近の雨で、早く咲いたツツジの花はすでに傷み始めてしまっているようだ。これから天候が回復し気温も上がれば、今つぼみを付けているものがきれいに咲き出すだろう。

また『新古今』から:

   百首歌の中に          式子内親王
 花は散りその色となくながむればむなしき空にはるさめぞ降る
                    (『新古今和歌集』巻二、春下)

 花は散ってしまい、その色を探し求めるでも無く眺めているとむなしく感じられる空には、春の雨が降ることであるよ。

まるで花を惜しむ私の心の流す涙のように…、とでも付け足したくなるような、とても繊細な情感の歌。実際に雨は降り出したのではなくて「春雨が降り出すように涙が零れてしまう」というふうに読みたいような気もする。グレーの曇天の空を眺めていると散り果てた花の色が惜しまれて、虚しさが感じられる。そんな物悲しい作者の感情に寄り添うように、弱い春雨が降るのである。


もう一首、今度は『新勅撰和歌集』より:

    はるのくれのうた       入道前太政大臣(西園寺公経)
 しら雲にまがへしはなはあともなしやよひの月ぞゝらにのこれる
                    (『新勅撰和歌集』巻二、春下)

 白雲と見紛うほどに咲き誇った花々はもう跡形も無く散ってしまった。
 春の終わりの三月(やよい)の月だけが空に残っていることだ。

空に残る月だからこれは下弦の月であろうか。とすると朝の情景。たとえば、前夜に降った雨で花がすっかり散ってしまった、その明くる朝、雨は上がり雲も切れて月が見えたが、その月に掛かる白雲にも見えたほどに咲いていた花はもう無いのだなあ、と嘆いている歌、などと勝手に想像してみる。


さらに暮春の歌を、『夫木和歌抄』より:
                   土御門院御製
 夕づく日かすみの西にかたぶきて入相の鐘に春ぞのこれる
                    (『夫木和歌抄、巻六、春部六)

 夕日が春霞の掛かっている西の方へと傾いていき、響き渡る夕暮れの鐘には春が残っているのだ。

かなり強引に口語訳にしてしまったが、「入相の鐘に春が残る」とはどういう情景であろうか。ぼんやりと霞む方に日が落ちてゆき、一面が赤く染まっていく頃、入相の鐘が響き渡る。花のあざやかな色彩に代わるのは夕づく日の赤であり、それと鐘の音の深い響きとが相俟って、そこに春の名残を見いだしたということか。もう春も終わったなあと思っていたのに、まだ春の風情が残っていたのに気付いたのだ。夏へと季節がうつろう前の、夕日と鐘との演出による、春の最後の現出。


以上、春の終わりを詠んだ和歌三首。かなり自由に解釈してしまったかもしれないが。
(とんでもない勘違いをしていたら、悪しからず)
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by junitchy | 2006-04-29 17:25 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 04月 25日
花さそふ
中世和歌を自己流に読んでばかりいたが上代〜中古あたりの和歌を真面目に読んだ事は無かった。最近やはり『古今和歌集』あたりからちゃんと読んでおこうと思い直し、その入門編として、『定家八代抄』を読み始めた。題名の通り、藤原定家が八代集(古今集〜新古今集)のなかから秀歌を選んで編纂した私撰集だ。
岩波文庫で上下巻で出ていて、各歌の大意が脚注に載っているので、内容や語句やらがつかみやすく、行き帰りの通勤電車の中でも読みやすい。『古今集』にあるような優美で微笑ましい佳歌を読むのは中学高校時代振りであろうか。


『定家八代抄』にあった中から、ちょうど今の時期に合うような一首を:

     五十首歌奉りける時                宮内卿
 花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎ行く舟の 跡みゆるまで

これは『新古今和歌集』春下に収載されている歌で、その『新古今』のほうでの詞書は「五十首歌奉りし中に、湖上花を」となっている。新古今歌人の一人だった宮内卿の、とても抒情的で、イメージ喚起的な歌だと思う。

花を散らす山おろしの風を「花さそふ」と表現するのも面白い。比良の山からの風に誘われて、桜の花は散ってしまった。散った花びらが湖上一面に拡がって、漕ぎ出して行く舟の通ったあとがはっきりと分かるまでになっている。水面に連なる花びらの波打つゆらぎ、という優美な風情を端緒にして、吹く風、散る花、漕ぎ出でる舟、と折り重なるように「行く」ないし「去る」というイメージをつむいで行き、湖上に花びらの軌跡という余韻を残しつつ去って行くがごとくの「春」そのものを描き出しているかのようだ。
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by junitchy | 2006-04-25 00:56 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 04月 16日
名ばかりの夢
   夢をよませ給うける            院御製 (伏見院)
夢はただ寝(ぬ)る夜のうちの現(うつつ)にて 覚めぬる後の名にこそありけれ


                   入道前太政大臣 (西園寺実兼)
寝(ぬ)るがうちは今や昔にかへるらん 昔や今の夢に見えつる


                       (『玉葉和歌集』巻第十八、雑歌五)



『玉葉集』で、夢を詠じた歌を二首。
先ず、伏見院の歌だが、少々解釈に悩んでしまう。

  夢というのは他でもなく寝ている夜のあいだは現実のことなのであるから、
  目覚めてしまった後に夢という名で呼んでいるものでしかなかったのだなあ。

このようにくどくどとした口語訳にしてしまって良いだろうか、という点はひとまず措いておき、ここにいう「覚めぬる後の名」とは「夢」という呼び名、名前のことではなく、「名と実」という意味での「名」であるとすると、むしろそれを強調して、

  夢というのはただ寝ている夜のあいだだけ現実のことなのであって、
  目覚めてしまった後には、単なる虚(うつろ)なるもの、実態のないものでしかなかったのだなあ。

としたらどうだろう。あるいは更に、「現(うつつ)」というのは、「現実」ということよりも、いつしかその正反対のことを言うようになった意味での、つまり「夢うつつ」という意味での「現(うつつ)」であるとすると、

  夢というのはただ寝ている夜のあいだに見る幻想なのであって
  目覚めてしまった後(の正気の状態)には単に名ばかりのものなのだったよ。

とでもしたほうが良いだろうか? 夢というものにあっては現(うつつ)はその方向性を変え、「現」であったものがいつしか「夢うつつ」になってしまうのだ。覚醒している時ならばそれが「夢」であったと判じることが出来るのであるが、夢のなかではまさに「現」という語がその相反する両極端の意味を行き来し、どちらとも決め難いのである。いずれにしろ、なんというか、とても分析的というか、解釈学的ではないだろうか?

これに比べると、西園寺実兼(永福門院の父。伏見院からすると義父になる)の夢はもう少し抒情的と言えるかも知れない。

  寝ているあいだは、今あるものが昔へと帰って行くのだろうか、
  それとも昔のことが今の夢として見えたものなのだろうか。

昔のことが夢に出てきてはっとするというのはよくあることかも知れない。その時、寝ているあいだは今が昔へと帰って行く、または昔のことが今の夢へと現成する、というふうに捉えるこの歌の視点は面白い。夢を通して、過去と現在は交差するのである。過ぎ去った過去へ思いを馳せる時、失ったものをまるで現実であるかのように目に見せてくれる「夢」は、時に慰めであり、夢から覚めがたく思わせるものである。それが単に「夢」という「名ばかり」のことであったとしても。

これらの歌が詠まれたのは七百五十年前のことだ。その時代の「名ばかりの夢」は、こうして歌に詠まれることで、私がそれらを読んでいる今ここにおいて、あるいは、それらを読む私にとって、「現実のもの」なのである、そもそも私が、夢を見ているのでないならば。
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by junitchy | 2006-04-16 14:09 | 和歌逍遥 | Comments(2)