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2006年 02月 25日
チーズ三昧
ワインとともにハマったのがチーズ。ブルー、ウォッシュ、シェーブル、ハード、クリーム、とこれまた様々な種類のチーズを試した。一時は家の冷蔵庫に10種類くらいのチーズがあって、それを皿に少しずつ並べ、ワインとともに食したりしていた(笑)

一般的にクセが強く、中にはかなりキツイにおいのするものもあるのでダメな人は全くダメなウォッシュだが、私はそれがむしろ好み。熟成が進んでとろとろになったところをスプーンなどで掬ってライ麦パンに(バターのように)付けていただくのがとてもおいしい。
私が食してもっとも美味かったウォッシュチーズは「エポワス」。少々高めでもブルゴーニュの赤ワインと合わせたい。私はニュイサンジョルジュのピノノワールと合わせて食したことがある。
「モンドール」というのも美味い。木の皮に包まれていてその風味が付いている。これはその年のボジョレーと合わせるのが定番らしいが、私はボジョレーは飲んだことが無いので分からない。熟成が進むとコクが増すので、やはり若飲みタイプより熟成させるタイプのワインのほうが合うのではないだろうか。
「マンステル」というウォッシュは大変くさい(笑)ので香辛料「クミン」をかけて食べるのが普通で、さらにマンステルの産地と同地方のワインで辛口の白の「ゲビュルツトラミネール」と合わせるのが定番。実際に試したが、確かにとても合う。
なお、クミンはカレー粉の主原料の一つ。クミンを付したチーズに合わせておいしいワインは、カレーにもぴったりと合うはず。カレーに合わせて美味しい(カレーの味に負けない)ワインは間違いなくこのゲビュルツトラミネールだと思う。5度くらいによく冷やしたところをいただくのがおいしい。

白カビでは定番のカマンベールだが、「カレ・ド・レスト」というチーズも好んで何度か買い、これが軽めのウォッシュのような感じでおいしい。カレ(Carre)というのはフランス語で正方形という意味。四角いチーズでは他にウォッシュの「プチ・ポンレヴェック」などもある。あ、これも旨かったなあ。

ブルーチーズでは、イギリスの「スティルトン」というのが好み。さらに濃いめの味で全体に黄色みがかった「スロップシャーブルー」もおいしい。これは何故かワインよりも濃いめに淹れた紅茶と共に食べたくなる。

そして、ハードチーズ。一つだけ挙げるとすればやはり、オランダの「ゴーダ」の長期熟成、これだろう。24ヶ月熟成ゴーダは大変コクがある味で、アミノ酸の結晶化したジャリジャリ感がとても旨い。さらに、48ヶ月熟成ゴーダというのもあった。二度ほど購入する幸運に恵まれたがそれはとにかく旨かった。シングルモルトスコッチと合わせて、完璧な組み合わせ。
ところが熟成ゴーダに使われていた食用ワックスが日本国内で認められていないものだったため、輸入がストップしてしまった。チーズ屋で最後の入荷という時には大きめのカットを買って、しばらくはそれでしのいでいたが、それを食べ切ってしまってからは似たようなタイプの「ミモレット」で我慢していた(そんな事言ったらミモレットに失礼だが)。でもやはりゴーダが忘れられない…、などと残念に思っていたのだったが、ようやく去年頃から日本の基準に合わせたものと思われる2年熟成タイプが販売再開したようで、一部のチーズ売り場で見掛けるようになった。これはもう喜ばしい限り。

最近はハード以外ではそれほど色々な種類を買う事もなくなったが、久々にウォッシュもいいなあ。プチポンレヴェックあたり行ってみようか。
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by junitchy | 2006-02-25 13:21 | 味覚嗜好 | Comments(4)
2006年 02月 13日
シングルモルトスコッチ
ワインのあとに嵌まったのはシングルモルトスコッチ。シングルモルトの蒸留所は100ほどしかなく、日本ではそのかなりのものが入手できるらしいが、私自身はそれほど多くの銘柄を試したわけではない。多分10数種程度だろう。6つのクラシックモルトのうち、クラガンモア、オーバン、ラガヴーリン、タリスカーの4銘柄は試した。あとは思い出すままに、グレンリヴェット、バルヴェニー、ハイランドパーク、ボウモア、等々。ああ、クラガンモア、久し振りにまた飲みたくなったなあ。

アイラ・モルトのボウモアは今でもたまに買っている。一言で表わすと:潮の香り、これである。グラスに注いで口に含む前に香りをかぐ時、どこか旅情を誘うような印象を私は受ける。潮風を受けているような気になるからだろうか。味の濃い長期熟成チーズ(ゴーダ、ミモレット)や、カシューナッツ、クルミなどのドライフルーツとともにいただく。これがなんとも堪らない。

思い出話を一つ。ちょうどスコッチに嵌まり始めていた頃、友人達との飲み会の二次会で入ったバーで、メニューにシングルモルトの銘柄が幾つか並んでいた。まだ試したことの無かったスプリングバンク12年を頼んだところ、店員さんが来て、今ちょうど12年ものを切らしているので、値段はそのままで21年ものをお出しします、との事。内心歓喜しながら、細長いリカーグラスに注がれたスプリングバンク21年をいただいた。一言:絶品。まず何より、その香りが大変素晴らしかった。味も決して直線的な強さではなく、ふくよかに、じわじわと、複雑で、余韻の長いフィニッシュ。いや、もう実際の味としては忘れてしまったが、その記憶、その印象は強烈に覚えているのである。これは至福の一杯だった。あまりにも感激したので、その後自分でもボトルで購入しようと思ったが、リカーショップの棚の上の方にあるのを見付けたスプリングバンク21年は2万円以上の値段で、ため息とともに諦めた。でもやはり諦め切れず、確かその年の年末に、もう少し安い12年ものを購入したのだった。たしか8500円くらいだったと思う(これでも安く売っていたほうだ)。

ああ。ワインに続き、シングルモルトスコッチへもまた回帰してみようか。
少なくとも、クラガンモアはさっそく買ってしまいそうだ。
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by junitchy | 2006-02-13 23:34 | 味覚嗜好 | Comments(0)
2006年 02月 11日
ワイン
1997〜1998年頃、ワインに嵌まっていた。嵌まったと言っても、高級なワインを買い漁っていたというのではない。せいぜい2000円くらいで買える、様々な国・地域・種類、たぶん100種類くらいのワインを試してみた。味が分かるようになったかと言えば怪しいが、どういうのが旨いのか、というような自分なりの基準のようなものは出来たかもしれない。

ワイン熱はそれほど長くは続かず、その後の嗜好はもっと強い酒へと向かった。シングルモルトスコッチをあれこれと購入し、それからウォッカ、これも何種類か試して最後にアルコール度数96度のスピリタスに行き着くことになる。

それ以降は、イタリア料理屋などでハウスワインを飲むくらいだったが、去年くらいからまたワインを買い始めた。家でパスタを作る時、合わせて飲みたいと思ったのだ。家の近くの酒屋で売っているワインで、やはり1500円程度で買える、スペイン・イタリア・チリ・アルゼンチン・ギリシャあたりのものを選ぶ。値段は安めでも作りはしっかりしているものが多い。フランスものでこの値段(で特にボルドーとかブルゴーニュとか銘打っているもの)だと、良いのはあまり無いかもしれない。

ちなみに、以前嵌まっていた時に飲んだワインで一番のお気に入りだったのは、イタリアのMontepulciano d'Abruzzoで、生産者はBarone Cornacchia。モンテプルチアーノという品種名からは軽快な赤ワインというものを想像するが、これは全く別物と言っていいほど違った。自分が飲んだのは1995年および1996年もので、1995年の空き瓶は今でも取ってある。値段は1500円くらいで買えるものだが、味は大変しっかりしており、しなやかで、樽熟成のバニラの香りも感じられ、とても美味いのである。ミディアムボディーだが味の強いチーズなどと合わせても遜色がない。
ふと思い立ってネットで検索したら、やはりBarone Cornacchiaの作るワインは一般的にも評価は高いようだ。検索ついでにネットショップで2003年ものを先ほど注文してしまった(笑) 久し振りにこの素晴らしいワインを堪能出来ると思うと、今から楽しみだ。

このワインに合わせるのは、先ずはジェノベーゼのパスタ、ライ麦入りパン、そしてチーズはやはり長期熟成ゴーダだろうか。
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by junitchy | 2006-02-11 18:28 | 味覚嗜好 | Comments(2)
2006年 02月 07日
批評ごっこ
前エントリは、カフカの短編小説『流刑地にて』についての小論、というか走り書きであるが、これは、大学時代の友人と三人で始めた"批評ごっこ"のために書いたものである。三人がそれぞれ自分なりに小論文を論述し、それをお互いに読み合い、論じ合う。勿論、酒を飲みながらだが。

実は大学時代に全く同じことをやったことがあり、十年振りにまたやってみようということになった(ただし十年前は若干メンバーが異なる)。その十年前は、三人がそれぞれ一作品ずつ挙げたのだが、友人の二人はカフカ『変身』、ボルヘス『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を選び、私は横光利一の『微笑』を選んだ。その時書いたはずの文章はどうやらどこかへ行ってしまったようで、読み返すことは出来なかった。また自分で選んだ横光については、私自身は小論を書き上げることが出来ずじまいだった。
批評が一巡した後、今度は創作をやってみようという事になり、題名を先ず決めてその題名を持つ小説ないしフィクションをめいめいが書く、ということにした。その題名は、友人の案によるものだが、『地平蝕(Eclipse d'horizon)』だった。

ちなみに、大学卒業間近になってからまた別の友人が文集を作ると言い出し、そのために書き上げたのが『A.-G.氏』だったのだが、その文集は、結局、というかそもそも初めから(笑)、作られなかった。なお以前BBSでも書いたが、「何らの由来が無いわけでもない」このA.-G.というイニシャルは、或るギリシャ語に由来する。BBSから自己引用しながらここにも書き留めておくことにすると:《・・・ギリシャ語の『ΑΓΕΝΗΤΟΣ(アゲネートス)』という語(形容詞)が元になっています。これはa(=否定の接頭辞)+genetos(>gignomai 生成する、生まれる)という成り立ちの語でして、手持ちの希仏辞典によりますと: agenetos, -os, -on 1) qui n'a pas eu de naissance ou de commencement; qui n'a pas de raison d'etre 誕生もしくは始まりを持たない;あるべき理由のない、2) qui n'a pas existe, non realise 存在しなかった、現実のものでなかった、3) qui ne peut exister, qu'on ne peut realiser 存在しえない、実現しえない となっています。つまり、Monsieur A-Genetos。有り得べからぬ氏。・・・》

十年前と同じようなレベルで文章を書き上げるというのは難しいものだ。つまりどれだけ自分がこの十年間で凋落したかを自ら見極めることになるのである。実際、私としては今回かなり苦心して『流刑地にて』についての文章(走り書き)を書き上げた。以前だったら一筆書きのようにさらっと書き上げてしまっていたかも知れない。それでも自分なりのスタイルというものはやはりあって、それは変わっていないなとも思う。

なお既に次回の課題も決まっている:ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』。友人の一人が挙げたものだが、わたし的には今までまったく顧みたことの無い作者および作品であり、読み進めるのが辛いのがもう分かり切っている。そこを鞭打って、論文まで書かねばならぬ。我ながら、どんな文章が出てくるのか、楽しみだ。

最後に私が課題を決める番になったら、さて何を挙げようか。
真面目に、考え中。
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by junitchy | 2006-02-07 23:33 | 冗語縷々 | Comments(0)
2006年 02月 05日
カフカ『流刑地にて』
何故だろう。流刑地の「法」が理解不能であり解釈不能であるということが、何故にこれほどまでに明晰なのだろう。


旅行者の位置。つまり、傍観者としての、あるいは、単なる立会い者としての。最後まで「法」に捉えられることなく。それに対してほとんど無関心で。「法」の外から、「法」が手付かずのままに執行されるのが目撃されるのみ。それに対して一抹の介入がなされることにになったにせよ、結局はその判読し得ない「法」は、そのままに残っている。逃げ出すのは旅行者の方だ。


困惑、そして、逃走。


そう、一体何故なのだろう。カフカ的状況と名付けることのできるような状況、それはつまりカフカ作品に典型的に現れているのであろうような、得てして一般的にはまさしくカフカ読解の肝になるのであろうような、そういった状況、不可解で理解不能でしかないが然りとて逃れることの不可能な「法」に捉えられ、その「法」に則って行動するしかない状況、は、彼には起こらない。
旅行者は、一般の世界、常識、良心、つまりカフカ的状況からすると外にある世界、こちら側の世界に徹頭徹尾所属しており、最後までカフカ的状況に捕われることがない。捕われているのはあくまで、それ自身において法そのものであるところの、そして同時に、流刑地という場所設定に端的に現れていることだが、その法の体現者であり執行者たる、将校である。そして法は、旅行者には判読不能である。それも目に見える形で判読不能なのだ。まずその完璧に動作するはずの装置。そして歯車の動きを正確に規定するはずの図面。将校はむしろその図面が判読出来ないことを旅行者に認めさせ、それに満足すらするのである。将校はそれが外部の者には理解不能な法であることが分かっており、彼にとってはいささかも(こういう言い方はあまりにも陳腐に響くであろうが)「不条理なもの」ではないのである。その法における正義を為す。それに従うのは法の執行者として当然のことだ。彼が最後に自ら法に処されるのを決する時、それは「不条理なもの」に従ってのことではなく、単に外部の者への目に見えた抗議に過ぎない。少なくとも、旅行者の目にはそう映る。だから何も手出しはしない。


ところが、一般常識の人たる旅行者が、そのあまりに酷過ぎる抗議の自殺行為が首尾良く進んでいないのを傍観し続けることが出来ず、何とかしたいと手を差し伸べた瞬間、処刑装置は決定的な不具合を起こしてしまう(『旅行者は手をさしのべた。このとき《まぐわ》が、いつもなら十二時間目にすることをやらかした』)。もちろん旅行者はこれを意図していたわけではないし、意図的にそう仕向けたのでもないだろう。だが、彼が何か出来ないかと思って手を出した瞬間に、かの「法」は、最終決定を下してしまうのである。外の人間、一般者たる旅行者が、手を触れることで、不可侵であるはずの「法」の逆鱗に触れてしまったかのように。


結局、旅行者に出来るのは、事の顛末に困惑しながらも急いで逃げ出すことでしかなかったのだ。

困惑、そして、逃走。

それはまるで、カフカのあれらの不可解な短編を読み終えたばかりの読者の謂そのものではなかったか。

仮にこの作品が全体として一つのアレゴリーであったとしよう。とすると、まずもってこれは、カフカ読解というもののアレゴリー、ないしカリカチュアであったことになるだろう。カフカ的世界の中に捕われているであろう者は、決してそこから逃げ出すことは出来ず、その中の「法」に従うしかない。だが旅行者たる我々は、逆に、困惑と逃亡しか可能ではなかったのだ。「法」に触れてしまうことは、逆にその法を侵すことになるのである。それはあってはならぬ侵犯だ。

不可能な侵犯の体験。それはだから、カフカの読者の体験そのものの謂であったことになるだろう。我々は、不可侵なものを犯すことをカフカ読解において経験しているのだろう。流刑地がカフカの住まう地であるとするなら、『流刑地にて』を読むことで既にして我々はカフカ的世界を侵犯してしまっているのかも知れない。それも、カフカの意図するところによって。二重の侵犯。或いは、高笑い—『《信ゼヨ、時ヲ待テ!》』。云々。


(※引用は、岩波文庫版、池内 紀編訳『カフカ短編集』より)


(二〇〇六年一月)
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by junitchy | 2006-02-05 12:43 | 繙読翻書 | Comments(0)
2006年 02月 05日
深きあはれ
    闇なる夜星の光ことにあざやかにて晴れたる空ははなの色なるが
    今宵見そめたる心地していとおもしろく覚えければ
                             建礼門院右京大夫

 月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる

     (玉葉和歌集、巻第十五、雑歌二)


 月ばかりを眺めることにすっかり慣れてしまっていたのだろうか、
 月の無い、ただ星だけが輝く夜というものがこんなにも素晴らしかったのだということに
 今宵初めて気付いたのだった


『玉葉和歌集』での詞書は、この歌が採られた『建礼門院右京大夫家集』にある元の長い詞書を選者が略したものだろう。その元の詞書を「千人万首」の通釈にて引用すると:

[詞書] 十二月一日頃だったろうか、夜になって、雨とも雪ともなく、ぱらぱらと落ちて来て、叢雲があわただしく往き来し、すっかり雲に覆われはしないものの、ところどころ星が消えたり光ったりしている。私は衣(きぬ)を引き被って横になっていたが、夜が更けた時分、丑二つ(午前二時半)頃かと思った時、衣をどかして空を見上げると、みごとに晴れて、薄藍色の夜空に、異様なほどの光を放つ大きい星々が、いちめんに現れていた。非常に心惹かれるさまで、縹(はなだ)色の紙に、金などの箔を散らしたのによく似ている。今夜初めて見たような気がする。今までも、星月夜は見慣れてきたけれども、これは折も折とて、格別な気持がするにつけ、ただ物思いに耽るばかりである。

今週は上弦の月なので、今、この真夜中の時に空を見上げれば、ちょうどこの歌にて詠まれているような星空になっていることだろう。十二月一日頃というから時期的にも同じ。八百年前に冬の夜空を見上げ、まさしく、星辰の妙(たえ)なる布置から発せられる無音の<音>を感じ取っていたのである。千人万首の解説によると、作者の恋人であった平資盛が壇ノ浦で滅した後に詠まれたものだという。きっとこの上ない無常感に包まれていたであろう作者が、美しい星空の永遠の美しさに感じたのと同じ「深きあはれ」を、八百年後の今、私はむしろこの歌に対して覚えずにはいないのである。
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by junitchy | 2006-02-05 01:52 | 和歌逍遥 | Comments(0)
2006年 02月 05日
大音響
知床・斜里町ウトロで、人工オーロラをレーザー光で再現するという催しがあるという。それを紹介したニュース記事の鮮やかな色の写真が目を引く。レーザー光の演出はとても美しいのだろうと思われるのだが、その記事にあった「大音響とともにレーザー光を照射する」というのがどうも気になる。

以前、友人と江ノ島散策に行った時、洞窟(鍾乳洞?)の中が仄かな光でライトアップされ、幻想的な様子を醸し出していた。ところが近くのスピーカーから流される音響がその雰囲気を壊しているような気がしてならない。もちろんその雰囲気に合わせたような静かな音なのだが、それでもやはり邪魔に思えてならないのである。一緒にいた友人も同意見だった。それと同じような状況に、ウトロのレーザー光オーロラでも、なりそうな気がする。

私は子供の頃から天体好きで、よく星空を見上げていた。今でも山小屋に泊まった夜に満天の星空をただぼうっと見るだけで感激している。そんな時、これ見よがしの大音響が押しつけがましくも鳴っていたとしたら、それはもう興醒めであろう。何となれば、星辰の妙(たえ)なる布置から、<音楽>を、この上なく感じ取ることが出来るのであるから。
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by junitchy | 2006-02-05 00:44 | 冗語縷々 | Comments(0)