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2006年 01月 29日
公園にて
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Hasselblad 903SWC (Biogon CF 4,5/38mm), Kodak BW400CN, Photoshop CS2
2006年1月22日(日)

  *

先週金曜日夜から土曜日は雪。近くの寺社などへ写真を撮りに行きたかったが雪がかなり降っていたので結局どこへも出掛けずじまい。雪のやんだ日曜こそ朝早く起きて雪景色の散歩写真を、と思っていたが、ぐうたらしていてやはり行かれず。それでもやっとのことで日曜日午後、それも日没間際ころになってから、すぐ近くの公園で903SWCにて撮影。雪はおおかた融け始めており、雪景色というよりも単なる休日の午後の公園のスナップだが、そういった撮影が久し振りだったこともあってとても楽しめた。今年は903SWCであちこち散歩写真を撮りに行こう。
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by junitchy | 2006-01-29 02:36 | 写真折節 | Comments(4)
2006年 01月 22日
暁の鐘、下弦の月
   暁述懐の心を読み侍ける      正三位家隆

おもふこと まだつきはてぬ ながき夜の ねざめにまくる かねのをとかな

(『新勅撰和歌集』巻第十七、雑歌二)



私は暁の鐘というものを今まで実際に耳にしたことは多分ないと思う。夜が明ける前、薄明の時間に、遠くから滲むように聞こえてくるであろう鐘の音というものは、さぞや厳かに美しいものであろう。眠れぬほどに思うことがあり、そのまま暁を迎えた時に耳にする鐘の音はきっと、ある種の清め、または、癒し、はたまた、諭し、として作用するのであろう。

昨日は関東地方では降雪があったが、今は雲も切れ、下弦の月が東の空に上がって来ている。月明かりで街中に降った雪がほのかに白く照らされている。

私にとって暁の鐘に相当するのは朝の月かもしれない。あらゆる森羅万象のなかで、朝まで残る月、下弦月というものが最も好きだった。自分が中学生の頃に詠んだ句を今でも覚えている:「朝焼けの 雲に輝く 下弦月」。これは、年が明けてから友人宛に年賀状を書き、直ぐに届けたいのでポストに投函せずに朝早く起きて自分で配って歩いたことがあって、その時に一番最後の一枚を届ける時に即興で詠んで手書きで年賀状に添えたものだった。私の下弦月への固執は、この頃から始まっていたのだろう。
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by junitchy | 2006-01-22 06:10 | 和歌逍遥 | Comments(2)
2006年 01月 14日
携帯よりブログへ
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携帯電話から投稿出来るというので試しにやってみよう。
ちなみに二か月前に新しい機種を購入。以前までのはカメラは付いておらず。特に必要な機能ではないし、かえって使用場所などにも制限があるので、新しいのを探す時にもカメラ機能無しのものにしたかった。ところが、もうそういう機種はほとんど無いのだ。仕方なくカメラ付きのを購入。200万画素とスペックを謳っているが、画質は高が知れている。使う気にならない。

…などと思っているが、ふざけ半分に、例のネコたちを撮ってみた。なかなか、かわいく撮れたりする。待受画面に設定したりしてしまった。

そんな中から、くしゃみをする瞬間のネコ。

パソコンで見たら、どんな風に見えるだろう?

旅先で携帯で撮った写真をその場でブログに送信というのもやってみたい気もする。これはこれで、なかなか面白いだろう。外化された記憶は、外部記憶装置の中を経巡りながら、新たな生を生きることになるのだろう。
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by junitchy | 2006-01-14 13:30 | 外部記憶 | Comments(0)
2006年 01月 09日
廃線跡
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2001年11月4日。栃木県・足尾町、わたらせ渓谷鉄道終点間藤駅より、旧足尾線跡を歩く。
CONTAX ST, Distagon 2,8/25mm
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by junitchy | 2006-01-09 12:12 | 写真折節 | Comments(0)
2006年 01月 02日
写真について
ある瞬間を写真に収めるということ、それは、永遠の、絶望の取捨選択なのだ。シャッターを切った瞬間に、私は、それ以外の瞬間を、それ以外の被写体を、取り戻すことが絶対に不可能であるような仕方で失っているのである。こう言おう、すべからく失われるべき瞬間に対しての、絶望的なる抵抗としてのシャッター。

記録。写真というものの出自と恐らくはほとんど同一であろうような。記録としての写真、写真という記録。これはすぐれて近代的な営みである。実物(アウラ)の不在と、それが不在であることによって或る等しい距離感において《所有》されることになる複製。複製そのものが一つのリアリティを持ち、複製という出自を越えて、複製たるアウラを持つに至るまで。
近代というのは複製を持つことが可能になった時代である。或いは、複製を持つということが初めて近代を可能にするのか。

失われるものを記録しておきたい。見たいと思った時にまた見返したい。何らかの形でずっと所有しておきたい。少なくとも、それを欲する者(つまり私)が存命している間は。

卑近な例を挙げよう。私は、家の近所に住んでいて遠からず近からずの関係を続けている野良猫たちに、ごくたまに、レンズを向ける。その猫たちはきっと、いつしか、私の前から姿を消してしまうのだ。私の部屋に勝手に上がってきて大胆に私の足元で暖を取っていた猫は、数年前にいなくなった。いつもびくびくしながらもかわいい声で鳴いていた毛並みの美しい猫も最近見なくなった。彼らのそんな姿を覚えているのは、私の他にほんの数人しかいないかも知れない。私は別に、記録しようと思って撮影したのではないかも知れない。だが今では、私はその時の撮影フィルムを失われたものの記録として所有してしまっているのである。

決して、そんなつもりはなかったのに。

残された者のそばにいつもある記録。無論これとてきっといつかは散逸してしまうであろうような、そんな記録として。

記録、それはつまり、複製としての、外部に存立することを図らずも余儀なくされた「記憶」であったということになるであろう。

《記憶? それは一つのスナップショットだ。(…中略…)この忘れ得ぬもの、だがひとたびそれを得ることで、逆にいかに多くの事柄が忘れ去られることになるのだろう。》 ( "le commencement, la fin" )
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by junitchy | 2006-01-02 23:56 | 冗語縷々 | Comments(2)
2006年 01月 01日
雪松
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2001年12月31日 平泉・中尊寺境内にて
CONTAX G2, Biogon 2,8/21mm + Kodak PKR64

   *

四年前の昨日、雪の平泉にいたのだった。
カメラ2台、CONTAX G2とHasselblad 500C/Mを持って、中尊寺・毛越寺などを訪れた。中尊寺境内では、大きな黒い松が雪の白との対比で美しい。撮影した画像を見ると、カラーフィルムで撮っているのにモノクロのような世界。

翌元旦からは三陸海岸方面を歩き回った。
まだ山登りを始める前で、あちこちカメラを持って歩いていた。
考えてみるに、カメラ、これは私にとっては一つの駆動装置、旅へと駆り立てる小さな仕掛けなのではないだろうか。
これを手にすると、あちらこちら、ここではないどこかへ、行きたくなるのだから。
それがたとえ近場へであるにせよ。いつも通っている街中へであったにせよ。
とにかくどこかへ。
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by junitchy | 2006-01-01 03:39 | 写真折節 | Comments(0)