カテゴリ:繙読翻書( 5 )

2008年 06月 08日
篆刻 - 記憶の蜃気楼
大学生になったばかりの頃、篆刻(てんこく)が趣味だった。

きっかけは、マラルメやヴァレリーの翻訳で知られる仏文学者鈴木信太郎氏のエッセー集『記憶の蜃気楼』に、篆刻についての文章があったこと。ちなみに、講談社文芸文庫版を購入した日付は1991年2月13日。今その文庫本を見返すと、篆刻について書かれているのは数ページしかないが(作者による印影もいくつか収められている)私にとってはこの本の中で篆刻というものをはじめて知り、強烈な印象を受け、自分でも試してみたい、好きな文字や言葉を彫ってみたいと思ったのだった。

さっそく図書館で篆刻入門や五体字典などを借りたり、また印刀や石、石の面を削るためのサンドペーパー、朱墨などを揃えた。印泥は高価だったので、落款印などに使うような朱肉を買った。

好きな文字や語句を選び、それを篆書体で確認し、デザインする。あれこれ考えるのが楽しい。字面が決まったら、印面に鏡像で転写し(墨で塗った印面に朱で書き込む)、少しずつ削っていく。かなり細かで地味な作業だ。

印の図案は結構たくさん作ったのだが、実際に石に彫ったのは結局3つか4つくらいだった。

お恥ずかしながら、その印影をスキャンしたので以下に掲示してみることにしよう:
 
 

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(さきがけ。好きな文字の一つ)



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愁 旅

(横光利一の小説「旅愁」)



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吟 閑

(「閑吟集」のイメージ)



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之 崖
愁 寺

(崖寺之愁。五山の詩の一句)



 
 
最初に彫った「魁」は、そのときの記録では「平成三年三月一五〜一六日 刻」。本を読んでからわずか一ヶ月後だ。

ちなみに、これ以外に、デザインはしていたが結局は刻することないままになってしまったものは:

・「畢」(ひつ・おわり。好きな文字。先の「魁」と一対をなすはずだった)
・「遡」(そ・さかのぼる。これも好きな文字)
・「碑銘」(ドビュッシーの「6つの古代墓碑銘」などの影響)
・「逍遥」(しょうよう。マラルメの"Divagations"を鈴木信太郎は「逍遙遊」と訳していた)
・「豈徒爾哉」(あにとじならんや。なぜ無駄なことがあろうか、の意)
・「為復終」(=またおわるために。べケット)

などがあった。その図案を今見返してみるとなかなか面白いものもある。

もし気が向いたら、またいつか、彫ってみよう。
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by junitchy | 2008-06-08 17:56 | 繙読翻書 | Comments(0)
2006年 02月 05日
カフカ『流刑地にて』
何故だろう。流刑地の「法」が理解不能であり解釈不能であるということが、何故にこれほどまでに明晰なのだろう。


旅行者の位置。つまり、傍観者としての、あるいは、単なる立会い者としての。最後まで「法」に捉えられることなく。それに対してほとんど無関心で。「法」の外から、「法」が手付かずのままに執行されるのが目撃されるのみ。それに対して一抹の介入がなされることにになったにせよ、結局はその判読し得ない「法」は、そのままに残っている。逃げ出すのは旅行者の方だ。


困惑、そして、逃走。


そう、一体何故なのだろう。カフカ的状況と名付けることのできるような状況、それはつまりカフカ作品に典型的に現れているのであろうような、得てして一般的にはまさしくカフカ読解の肝になるのであろうような、そういった状況、不可解で理解不能でしかないが然りとて逃れることの不可能な「法」に捉えられ、その「法」に則って行動するしかない状況、は、彼には起こらない。
旅行者は、一般の世界、常識、良心、つまりカフカ的状況からすると外にある世界、こちら側の世界に徹頭徹尾所属しており、最後までカフカ的状況に捕われることがない。捕われているのはあくまで、それ自身において法そのものであるところの、そして同時に、流刑地という場所設定に端的に現れていることだが、その法の体現者であり執行者たる、将校である。そして法は、旅行者には判読不能である。それも目に見える形で判読不能なのだ。まずその完璧に動作するはずの装置。そして歯車の動きを正確に規定するはずの図面。将校はむしろその図面が判読出来ないことを旅行者に認めさせ、それに満足すらするのである。将校はそれが外部の者には理解不能な法であることが分かっており、彼にとってはいささかも(こういう言い方はあまりにも陳腐に響くであろうが)「不条理なもの」ではないのである。その法における正義を為す。それに従うのは法の執行者として当然のことだ。彼が最後に自ら法に処されるのを決する時、それは「不条理なもの」に従ってのことではなく、単に外部の者への目に見えた抗議に過ぎない。少なくとも、旅行者の目にはそう映る。だから何も手出しはしない。


ところが、一般常識の人たる旅行者が、そのあまりに酷過ぎる抗議の自殺行為が首尾良く進んでいないのを傍観し続けることが出来ず、何とかしたいと手を差し伸べた瞬間、処刑装置は決定的な不具合を起こしてしまう(『旅行者は手をさしのべた。このとき《まぐわ》が、いつもなら十二時間目にすることをやらかした』)。もちろん旅行者はこれを意図していたわけではないし、意図的にそう仕向けたのでもないだろう。だが、彼が何か出来ないかと思って手を出した瞬間に、かの「法」は、最終決定を下してしまうのである。外の人間、一般者たる旅行者が、手を触れることで、不可侵であるはずの「法」の逆鱗に触れてしまったかのように。


結局、旅行者に出来るのは、事の顛末に困惑しながらも急いで逃げ出すことでしかなかったのだ。

困惑、そして、逃走。

それはまるで、カフカのあれらの不可解な短編を読み終えたばかりの読者の謂そのものではなかったか。

仮にこの作品が全体として一つのアレゴリーであったとしよう。とすると、まずもってこれは、カフカ読解というもののアレゴリー、ないしカリカチュアであったことになるだろう。カフカ的世界の中に捕われているであろう者は、決してそこから逃げ出すことは出来ず、その中の「法」に従うしかない。だが旅行者たる我々は、逆に、困惑と逃亡しか可能ではなかったのだ。「法」に触れてしまうことは、逆にその法を侵すことになるのである。それはあってはならぬ侵犯だ。

不可能な侵犯の体験。それはだから、カフカの読者の体験そのものの謂であったことになるだろう。我々は、不可侵なものを犯すことをカフカ読解において経験しているのだろう。流刑地がカフカの住まう地であるとするなら、『流刑地にて』を読むことで既にして我々はカフカ的世界を侵犯してしまっているのかも知れない。それも、カフカの意図するところによって。二重の侵犯。或いは、高笑い—『《信ゼヨ、時ヲ待テ!》』。云々。


(※引用は、岩波文庫版、池内 紀編訳『カフカ短編集』より)


(二〇〇六年一月)
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by junitchy | 2006-02-05 12:43 | 繙読翻書 | Comments(0)
2005年 10月 04日
読書(読み・書き)
『ブランショ小説選』は刊行日に早速購入し少しずつ読み始めているがやはりなかなか進まず。外界との境界が希薄となって溶解していくがごとき観念描写。ブランショを読むとき、恐らく通常の小説やらにおいて普通になされることになっているはずのことをそこに求めていくと全く当て外れになるのだということを肝に銘じなければならぬ。

これと前後して、他に購入していたもの:
『風の旅人』No.16。表紙および巻頭を飾っているEmmet Gowinによる航空写真が素晴らしかったので。この雑誌については今まで全く知らず、今回店頭で(池袋のジュンク堂書店にて)たまたま目に留まったものだが、これ以外の内容も見ごたえ・読みごたえがある。旅行会社を経営しつつ(専務取締役だそう)雑誌も(一人で)編集しているのだというから凄い。バックナンバーなども見てみたい。
風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜

『現代詩手帖』2005年10月号、特集:ヴァレリー新世紀。これを読んでいて、やはりヴァレリーをちゃんと再読したくなる。ところが考えてみると、学生時代にはもっぱら図書館で筑摩書房刊『ヴァレリー全集』および『ヴァレリー全集カイエ篇』を借りて読んでいたので、今手元には翻訳書は文庫本数冊と『ヴァレリー・セレクション上・下』しかないし、原書は文庫サイズ廉価版のものが数冊あるのみ。突然、古書店めぐりをして邦訳を(特に『ヴァレリー全集第3巻、対話篇』を)入手しようという気になり、先週土曜、実に久しぶりに神田神保町へ行ったのだが、予定に反して、結局原書(プレイヤード叢書版『全集』二巻本、ガリマール社)を古本で購入してしまった。ヴァレリー再読の機運はますます自分のなかで高まっている。

そして寝る前に少しずつだが『ディヴァガシオン』を読み進めている。これだけ集中して読んでいるのは何年ぶりのことだろう。ブログを書き始めたことで、かつてのように読むことを再開しかけた格好だ。いつまでつづくかは分からないが…。
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by junitchy | 2005-10-04 00:11 | 繙読翻書 | Comments(0)
2005年 09月 30日
ブランショ
長らく待っていた『ブランショ小説選』(書肆心水)がいよいよ刊行される。

書肆心水のページ

『謎の男トマ』"Thomas l'Obscur"は翻訳と原書を並べて読もうとしたことがある。原書はガリマール社のイマジネール叢書に入ったばかりで入手しやすかったのだが、邦訳本は当時は入手困難のため図書館で借りるしかなく、返却期間がすぐに来てしまうので結局読めずじまい。古本でも全く見掛けなく、ほとんど諦めていたのだが、今回、全面改訳にて新版刊行は何とも有り難い限りである。

書肆心水からは、デリダによるブランショ論"Parages"の翻訳も刊行予定とのこと。これも原書は購入しているが部分的に見ただけで全く読めていない。さすがに今、原書と格闘するだけの体力も時間もない。もちろん、翻訳が出た後ですら、それをちゃんと読めるというわけではないだろうが。いやはや…。
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by junitchy | 2005-09-30 00:19 | 繙読翻書 | Comments(0)
2005年 09月 25日
繙読
最初の書き込みで引き合いに出してしまった手前、そうしないわけには行かないであろうという一種の強迫観念によって、実に久し振りに、現在刊行が途中で止まっている筑摩書房『マラルメ全集』の第2巻『ディヴァガシオン 他』を、書棚より取り出す。1989(平成元)年8月7日、と鉛筆にて購入日が書き入れてある。当時は、ドビュッシーの音楽に傾倒し、そこから絵画はルドンへ、文学はマラルメ、ヴァレリーへと興味の対象がどんどんと拡がっていたのだった。なお1989年は私はまだ大学入学前の浪人生で、よくこんなものを買ったものだと今更ながら呆れてしまう。

もちろん、買った当初からすぐにちゃんと読めたわけではない。何より、一旦所有してしまうと、ひとまずは所有欲が満たされてしまう。本の中身よりも、その体裁、手触り、紙質といった本そのものに愛着が沸いてしまう。読まずとも、字面を追いページをめくっていくだけで満足してしまう。これは私にはよくあることなのだが。『マラルメ全集』に対しては、特にこうした思い入れが強かった。
他の文献で取り上げられているところなど部分的には精読したが、全体にわたっては今もって読み込んではいない。大学入学後にはむしろ哲学に興味が移っていたこともあり、結局『マラルメ全集第2巻』は私の本棚の一番目立つ位置に、常に目に留まる定位置に置かれたまま、繙かれることもなく、惰眠を貪っていたのだ。

さっきから、改めて、ページの最初から読み直してみる。ボードレールの散文詩のような「逸話、或いは詩編」は当時は苦手だったが、案外すんなりと読み進めることが出来た。ヴァレリーとともに、マラルメも、ここらできちんと再読しておこうか。
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by junitchy | 2005-09-25 23:35 | 繙読翻書 | Comments(0)