カテゴリ:冗語縷々( 23 )

2012年 04月 07日
FRONTISPICE (口絵)
ウェブサイト "junitchy - Cahiers des images"にて、以前使用していた(もしくは使用するべく準備していた)トップページ用の画像を見返していた。

よく覚えている、思い入れのあるものもあったが、自分でもあまり印象にない、こんなのをアップしていたっけ...というものもあった。

ためしに、そのうちのいくつかを以下に掲示してみよう。


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2004年頃、神代植物公園の温室にて、水瓶にぎっしりと浮かべられた花々。
タイトルを「SURVIVRE (生き延びる)」と付けたのは、枝から朽ち落ちたはずの花が美しく生き延びていたので。そしてそれを収めた写真が、まさにその「死後の生」を永らえさせている。
Flickrにも載せているので、それなりに見られている画像だと思う。


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もしかすると実際にはサイトでは使用しなかったかもしれないが、南アルプス山上での日の出。
ハッセル903SWCを購入した一ヶ月後。山にこれを持って行ったのは、このときだけだ。
大変な思いで登った翌朝の撮影だが、この後さらに過酷な山行が続いたのだった。



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これも、あまり長い期間は公開していなかったはずだ。長野・鬼無里村へミズバショウを見に行ったときの撮影。見上げれば新緑の五月だが、足元にはまだ多くの残雪があった。戸隠にはその後何度か行っているが、鬼無里へはこの2002年のみだったと思う。


*   



さて今は、全くはかどってはいないのだが、ウェブサイトの再構築を構想している。
といっても、久しぶりに、表紙ページのデザインを考えたり、Photoshopでタイトルロゴを作ってみたりしているだけであるが。
今年の6月末には「homepage.mac.com」というドメインが使用不可となるので、それまでには何とか、表紙ページだけにしろ、どこかへ引越ししようと思っている。また、古い素材の使い回しでお茶を濁すことになりそうだが...。

あとで、ほかの表紙画像(口絵)もアップしてみよう。






 
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by junitchy | 2012-04-07 20:58 | 冗語縷々 | Comments(0)
2011年 02月 26日
公園
語の「絶対的用法」というものがある。目的語や補語を伴わず、または何らかの限定詞によって限定されずにただ或る語が言われる場合。これはつまり、話者にとっては自明であること、当然の前提とされていることが単に省略されている、ということであるわけだが。

例えば、ありきたりの一般名詞であるところの「公園」、と私が言うとしよう。

この14年間、私の中では、このような絶対的用法たる呼称によって単に「公園」と言った場合、それはただ一つの公園のことを指していた。何の事はない、それは住んでいた場所のごく近くにあった、市営の運動公園のことである。
それは、私にとっては通勤路であり、散歩道であり、ジョギングコースであり、写真撮影の場であり、大きな木々の林立する自然であり、云々。言わば自分の住処の延長線上にあるものだった。

先日、この住み慣れた地から他所へ引っ越した時には、それこそ荷造りのバタバタで感傷に浸っている余裕など無かった。とにかく荷物を段ボールに夜通し詰め込んで、翌日には慌ただしくこの地を後にしたのだった。その一週間後、部屋の引渡しのためにもう一度訪れたとき、何もない部屋の中の掃除をして目立つ汚れを落とし、鍵を返却して名実共に引越しが完了してから、改めてゆったりと「公園」を歩いた。

ほんの少しだけ、と思ったが、やはり何とも去り難く、大きな荷物を抱えながら、愛着のある木々を小さなデジカメで何枚も撮影した。葉を落とした裸木の枝振りは何とも美しい。

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 (2011/2/19 LEICA D-LUX4, JPEG)


これだけの写真をほんの数十分の間に撮影出来る公園が、家を出て30秒の近くにあったのだ。正直、部屋そのものにはあまり未練は感じなかったが、この「公園」から離れることを改めて実感すると、何とも言えず寂しさが募って来る。例えば旅行などで留守にしていた後に公園の大きなニセアカシアの林立を遠目に見ただけで、ああ、やっと戻ってきたのだ、と感じられたし、いやそんな特別なことでなくとも、日々の通勤帰りがけにこれらの木々、ケヤキ、イチョウ、サクラの並木などに迎えられるだけでとても癒されたものだ。もちろんここ以外にも、玉川上水緑道、多摩湖サイクリングロード、小金井公園、昭和記念公園など、行きつけの場所には沢山の木々があった。私は武蔵野の木々に囲まれて生活していたのだった。

新しい生活の場所すぐ近くには、桜の大木の並木がある。それは高い鉄塔と高圧電線の下に沿って立っているのだが、見事な枝振りだ。少し歩くと大きな川が流れており、それに沿って遊歩道やサイクリング道もあるし、それを河口に向かって進めばそう遠くない距離で海辺に出る。海辺には大きな公園もあり、沢山の松が生い茂っているだろう。私はそんな周りの環境があるからこそ、この場所を選んだのだ。

それにしても、しばらくは元の住処への郷愁の念は消えないだろう。仮に、私だけの絶対的呼称としてただ「公園」と言うことが、今や困難になってしまったのだとしても。









 
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by junitchy | 2011-02-26 18:13 | 冗語縷々 | Comments(2)
2011年 02月 15日
記録と記憶とのはざまで
(2010/11/29-)

例えば、私が文章を書くということにおいて、学生時代から持ち続けてきたテーマ、何らかの形で常にそこへと回帰することになった問題設定というものがある。それは「何も言おうとしていない、ということをしか言おうとしていない文章を書くということ」ということである。今これを、表記法を変えて、二重にも三重にも引用符を付して書き改めてみると :

「『<何も言おうとしていない>ということをしか言おうとしていない文章を書く』ということ」

ということになる。私は恐らくこのことに腐心してきたし、または全く意図せずにこのテーマへと収斂したりしてきた。このような軸が、私の文章のスタイルをいわば内側から規定してきているのである。


そして、写真について。写真について考えるときの、このような問題設定というものがあるだろうかと考えてみると、最近になってようやくそうしたものが形になってきたような気がする。

写真を始めたばかりの頃に書き留めた或る文章、それはまさに何も言わないことをしか言わない文章なのだが、その中で私はこのように書いた:

『記憶? それは一つのスナップショットだ。掴み取られ、切り離され、独立し、何の文脈も持たぬままにきっと存立し続けるであろうような。この忘れ得ぬもの、だがひとたびそれを得ることで、逆にいかに多くの事柄が忘れ去られることになるのだろう。』
ー"le commencement, la fin" (2001)

以前にも何度か自己引用しているこの一節に、私はずっと、そもそもの初めからして常に既に、捉えられていたのだった。そしてそれは今や、外側から私を規制し、私に付き纏い始めている。

複製、<現実世界>のささやかなレプリカ。時間的・空間的な隔たりは無化され、或る均等な距離に置かれて。記念として。記録として。一つの所有物として。既に失われてしまったものの代理として。

そして、やがて失われてしまうものの、前もっての代補(=或るものの代わりとなり、その或るものを後から補うもの)として。

それはあまりにも利己的な営為だ。失われることが分かっているものを、密かに、そのアウラを無化し、或る等距離の隔たりに置いてしまう。等距離の隔たりに置かれたものを得ることに満足してしまう。私はそのようにしてきっと、その掛け替えのないものを、少しずつ、死へと追いやってしまうのだ。

『ある瞬間を写真に収めるということ、それは、永遠の、絶望の取捨選択なのだ。シャッターを切った瞬間に、私は、それ以外の瞬間を、それ以外の被写体を、取り戻すことが絶対に不可能であるような仕方で失っているのである。こう言おう、すべからく失われるべき瞬間に対しての、絶望的なる抵抗としてのシャッター。』(2006/1/2のブログ記事より自己引用)

その失われた瞬間が「生」であるとするなら、切り取られた瞬間は「死」である。そしてその「死」は、或いは「死」としての「写真」は、記録と記憶とのはざまという境域にあって新たな「死後の生」を生き延びることになるのだ。

(-2011/2/15)






 
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by junitchy | 2011-02-15 20:46 | 冗語縷々 | Comments(0)
2011年 01月 11日
海へ

昨年11月、母が亡くなり、葬儀など一通りのことが終わったあと何だか無性に海が見たくなって、仕事復帰後の最初の週末に鎌倉へ行った。12月上旬のちょうど紅葉が始まった頃で、まずいくつかの寺を回って写真を撮ってから、夕方になる時分に由比ヶ浜へ向かった。初めから、夕日の海が目当てだったのだ。富士山も見えるかと思っていたが、自分が居た場所からは見えなかった。だがその日は、落日がとにかく美しくて、また残照が波打ち際を黄昏色に染め、いつまでもその場から離れ難かった。

夕日の海の富士山がやはり見たくなったので、その翌週にもまた鎌倉へ行った。今度は稲村ヶ崎から七里ヶ浜まで、波打ち際をずっと歩いた。ところがその日は夕方に掛けて雲が多く掛かってしまい、間近に見えるはずの富士山はほとんど見れなかった。夕焼けにもあまりならなかったが、赤黒く染まる水面を静かにたゆたう小舟と、そのずっと向こうの水平線を夕陽に向かって進んで行くタンカーのゆっくりとした動きに見入ってしまった。

動くもの 動かぬものは ただ波の うつろう色に 見まがえし影

やはりまだ夕日の海と富士山が気に掛かって、年末に今度は三浦半島の最南端、城ヶ島へ行った。ところがその日は海は大荒れ。まず、駅から乗ったバスが城ヶ島の手前止まりだったので城ヶ島大橋を徒歩で渡ったのだったが、体を取られそうになるほどの強風に橋の上で晒されて、実際かなり恐かった。
海辺に出るととてつもない強風が吹き荒れていた。かつて登山で体験した強風(富士山でだったか、それもと冬の八ヶ岳だったか)が思い起こされた。目を瞑ると、山と海とのイメージが交差し、現に今、山上にいるのではないか、山上で風に飛ばされているのではないか、というような錯覚に捕らわれた。そばに誰も居ないことを確かめてから、私は本当に、大声で、心から歌ってみた。"Living is easy with eyes closed, misunderstanding all you see..."

水しぶきが舞う、とかいうような生易しいものではないほどまでに潮が叩きつけてきて、海に向けてレンズを向けるとあっという間にレンズ表面が濡れてしまう。風が弱まる一瞬のタイミングを見計らってカメラを瞬時に構え、シャッターを切ったらすぐに海に背を向けて、クリーニングペーパーでレンズを拭かねばならなかった。こんな悪天候では海辺には人はほとんどいない。お陰で、大荒れの波打ち際の向こうに聳える富士の端正な姿を、いつもとは違って人影を全く気にせずに何とか作画することが出来た。

年が明けて、成人の日の連休中に今度は東京湾フェリーに乗った。船に乗るのは2003年の利尻・礼文島のとき以来だったろうか。冬の海はうねりがあって船は前後左右にやや揺れたが、浜金谷までの40分間はずっと甲板に出て、煌めく洋上の写真を撮っていた。
下船後は、ロープウェーで鋸山山頂へ。標高は330m足らずだが、眼下には東京湾(正確には浦賀水道)が広がり、その向こうには箱根の山並みの背後に富士山がうっすらと見える(空気が澄んでいればもっとはっきりと望めるはずだ)。だがここで夕暮を待つほどの眺めというわけでもなく、山腹の千五百羅漢の崩れかけた石像に暫し足を止めながらも足早に歩いて、陽が傾く前に港の手前の小さな浜まで戻った。漂着したゴミが溜まっている、お世辞にもきれいとは言えない砂浜だったが、海面の上にほのかに富士のシルエットが見える。ここで日没まで粘ることにした。
赤く染まる空と海。厳かでかつ速やかな日没。上空には四日目の月。すると、茜色の空を背景にまるで戯れるようにトンビの群が飛び交い、その神々しい姿を思わずレンズで追った。そして絶妙なる富士の佇まい。帰りのフェリーでは疲れで暫し寝入ってしまった。

こういった次第で、夕暮れの海、そして富士山に憑かれてしまった。もちろんこれは、今に始まったことでもないのだが。さて次はどこへ行こう。どこへ行っても、そこから見る方向はきっと同じだというのに。





 
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by junitchy | 2011-01-11 21:17 | 冗語縷々 | Comments(0)
2010年 11月 17日
旧BBS削除
旧BBSが削除されていた。

しばらく更新されていない掲示板が一括削除されたのは今年7月のことだったらしいが、それに気付いたのはつい先日のことだ。

「OTD BBS」という過去ログ全保存が売りの掲示板で、2001年5月のホームページ開設時から2002年末まで利用していたもの。その後は現在の「BBS (II)」へ引っ越していたが、この「21 STYLE」掲示板のほうはそもそも古いログから順次消えてしまうことが最初から分かっていたので、かなりマメにバックアップを取っていた。お陰で、2003年当初からのすべての書き込みが私のMac内には保存されている。

ところが旧BBSは何しろ過去ログ全保存だったから、いつでもオンラインで見えていたし実際にちょくちょく読み返す事もあったので、それに安心して迂闊にもバックアップをちゃんと取っていなかったのだ。

たしか今年の前半にも読み返していたと思う。そして先週、また読み返そうとしたら、既に無くなっていたのだった。

今Mac内を探してみると、開設当初の2001年5月から8月までの分については、バックアップがあった。他に、いくつかのやりとりをテキストファイルで保存しているものもあった。

試しに「Internet Archive」の「Way Back Machine」を丹念に検索してみると、辛うじて2001年6〜7月頃の書き込みのページと、2002年5月末頃〜8月頃の書き込みのページが見つかった。

だが残りの部分、つまり2001年9月頃〜2002年5月頃、および2002年9月頃〜12月末の書き込みは、もう失われてしまった。

ほぼ10年前、当時のインターネットは現在では主流のブログ、つまりどれを取ってもほとんど画一的な体裁をしているウェブログというものはまだ無くて、各人がいろいろに凝ったホームページを作成し、そしてビジターとの交流のためにBBS(掲示板)を利用しているものが多かった。ブログと違って、BBSでは管理人以外の人が(単なるコメントや返信だけではなく)新規投稿出来るところが魅力で、だからこそ今でも私はBBSを解約せずにそのまま残しているのである。

そのときの交流は、主にカメラ関連のものだ。いまではすっかり廃れてしまったYahoo掲示板や、既に存在しないExciteサークル。そしてカメラや写真の話題のみならず、音楽や登山について数多くの楽しく興味深い会話をさせていただいた。

私は当時と同じハンドルネームを今でもずっと使っているが、同じように当時のお名前で現在もウェブ上で確認出来る方はほんの僅かで、もう交流もほとんど途絶えてしまった。

そして、記録は消え去り、今や、あやふやないくつかの「記憶」の中での存続に一切を委ねることになったこれらの「対話」を、私はこれからずっと、虚しく追い求めることになるのだろう。
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by junitchy | 2010-11-17 23:59 | 冗語縷々 | Comments(0)
2010年 11月 14日
カメラ体制
先週、カメラを購入した。

実は最近ずっと、デジタル一眼レフを検討してきたのだった。当然、CONTAX用の手持ちのZeissレンズ群を、マウントアダプターを介してキヤノンのEOSデジタルに付ける算段で、先にそのアダプターだけ購入していた。

いやそもそも5年前、35mmフルサイズのEOS 5Dが発表された時から悩んでいたのだった。その時に40万出して5Dを買っていたとしても、まあおそらく後悔はしていなかっただろうと思う。でも結局、その時は買わなかった。何故かというと、私が最も気に入っていて使用頻度も高かったPlanar 2/100mm AEGやMakro-Planar 2,8/60mmといったレンズが、マウントアダプターとボディとの干渉によってこの5Dではほぼ使えないと分かったから。そうして、いわばその反動として、ほぼ同じ価格で売られていたHASSELBLAD広角専用機903SWCを購入してしまったのだったが。

今年に入って、現有のCONTAX一眼レフ「ST」が不調になった。シャッターがうまく切れない。これは修理に出すしかないが、長野のサービスセンターへ郵送しなければならないし、そもそもSTの補修サービス期間は2007年までで終わっており、修理出来ない可能性もある。さてどうしたものか。もう一台、完動品のCONTAX一眼レフを買っておきたいとも思う、が、でも、ここらでそろそろ、デジタル一眼レフを買ってしまっても良いのではないかと。そのように考え始めたのだった。

そこで気になりだしたのが、昨年出たAPS-Cサイズ機のEOS 7Dである。フルサイズ機の5Dやその後継5D markIIには付けられないレンズでも、APS-C機ならば装着可能だ。センサーが2/3の大きさになり、画角では1.6倍相当となることがネックで今まではAPS-Cには興味が無かったが、むしろ中望遠〜望遠側の専用機として割り切って使うのも悪くないだろうと今回は考え直したのだった。つまり標準レンズPlanar 1,4/50mmは80mmの中望遠レンズ、60mmマクロは96mm(約100mm)マクロとして使えるし、100mmプラナーは160mmの望遠レンズとなるわけで、これはこれで良いのではないかと思えてきたわけだ。そして7Dは価格も下がってきて買い時になってきた。1800万画素ははっきり言ってオーバースペックだし、そもそもAFではないし、高速連写もしないのだが、50Dや60Dにはあまり食指が動かない。中古で4万円ほどになってきた1100万画素の40Dにはちょっと心惹かれるがやはりデジタルは最新のものが良いだろう。そうなるともう、あとはタイミングの問題で、ほとんど7Dを買ってしまいそうだった。

ところが、というかやはり、ここで改めて逡巡するわけである。やはりどうせならフルサイズが欲しい(他のレンズなら5D mkIIにも付けられる)・・・とか、もうすぐ後継機が出るから少し待とうか・・・とか、噂になっているAPS-H(1.3倍)の中級機(3D?)が出るならそれが良いのでは・・・?とか。で結局また悩んでしまい、一度決心したはずの7D購入はどこかへ消えてしまった。

となると、やっぱりCONTAX一眼レフをもう一台、ということに否が応でもなってくるわけで、そして結局は現有機と同じ機種、CONTAX STの程度の良い中古品を購入してしまったのだった。価格は3万円もしない。もうフィルム一眼レフは売れないのだそうだ。私はCONTAX G2ももう一台買っておきたくなった。

昨日、近場を散歩しながら2台目(2代目?)STでの初撮影。使用レンズはもちろん、上記のPlanar 2/100とMakro-Planar 2,8/60だ。同時にROLLEIFLEX3,5Fも久々に持ち出した。やはり手慣れている機種での撮影は楽しい。こうして、デジタル一眼レフへの移行の道が、また遠のいてしまったのだった(苦笑)。
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by junitchy | 2010-11-14 20:33 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 07月 23日
舞台裏
昨日7/22がpleyelさんの演奏会本番。
会場到着が若干遅れていたpleyelさん本人に代わり、私のほうで照明進行の細かな事前打ち合わせを行なった。本番では、舞台裏にて持参のMacを広げてデジタル録音しつつ、照明のキュー出しもやっていた。本当は客席で聴いてみたかったが、録音機材からの音声出力をイヤフォンで聴きながら、台本(とモニタ画面)で舞台の進行を確認しつつ、インカムでキューを出す、というのも、面白い体験だったと思う。

構想時点から関わっていてそもそも台本・曲目の原案も自分である程度までは書いていたので内容についてはよく分かっているし、公演に先立っての通し演奏も聴いていたのだが、改めて実際の公演を聴いていて(舞台裏にあってじっくり鑑賞というわけにはいかなかったにせよ)やはり大変感銘を受けた。『源氏』シリーズで朗読とピアノを数年来にわたって演じておられるpleyelさんの、語りとピアノとの間(ま)が絶妙。言葉が途切れたあとを音の断片が継いでいく。余韻、暗示、拡散、はたまた凝縮。全体を通して感情を込めた読みがとても素晴らしく、つい聴き入ってしまった。

特に、第一部の最後で、恋人の死の報せ(平資盛らが壇ノ浦で入水)を受けての右京大夫の絶唱詠四首の朗読に続いて演奏されたラヴェルの「鐘の谷」(ピアノ曲集『鏡』第五曲)のところで、私は思わず目頭が熱くなった(ただし回りに人がいたので我慢した)。また第二部でドビュッシーの悲しく切ない「雪の上の足跡」(前奏曲集第一巻第六曲)の途中では、上を向いてハンカチで目を押さえるほどだった。

今日、録音した音源を通して聴いていたが、またしても、今度は、右京大夫が建礼門院(壇ノ浦で助け上げられて寂光院に隠棲していた)を大原へ訪ねて嘆く場面に続いて弾かれるドビュッシー「沈める寺」(前奏曲集第一巻第十曲)でジーンとしてしまう。もともと好きな曲であるし、この曲は自分が選定したものだったので、場面の感情移入がしやすいということもあるのだろう。

録音音源を編集し、少しでも早く、多くの方へ公開することが出来れば、と思う。
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by junitchy | 2007-07-23 22:45 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 07月 21日
解説:しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集
和歌の第一人者として当代はもとよりこれ以降の和歌に多大な影響を与えた藤原定家は、和歌史に名高い『新古今和歌集』の撰者の一人であったが、それに続く九番目の勅撰集となる『新勅撰和歌集』を今度は定家独りで撰することとなった。時は鎌倉中期のこと、虚しくも倒幕を企てた後鳥羽院が隠岐に配流されてから(世に言う「承久の乱」)既に十数年が経っており、幕府は北条氏がその権力を確たるものとしていた時代。ちなみに、同じく定家撰の『百人一首』が成立したのもこの頃である。

その『新勅撰集』に、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という名で二首の歌が採られている歌人が、本日演じられる『しのばしきむかしの名こそ〜洋琴抄・建礼門院右京大夫集』の原作者である。


建礼門院とは、平安時代最末期に権勢を極めた平たいらのきよもり清盛の次女・徳子(のりこ)へ贈られた院号(上皇や皇太后などに贈られる尊号)である。彼女は平家の絶大な勢力を背景に高倉天皇妃(中宮)となって安徳天皇を生み、自身もこの世の栄華を極めた。だが、奢れるもの久しからず。清盛死後の、坂を転げ落ちるような平家の没落。壇ノ浦の合戦でついに平家一門は破れ、清盛の妻であり徳子の母である時子(二位尼)に抱かれて幼い安徳天皇も海に沈んだ。そのとき徳子自身も入水するが、源義経の軍勢に助け上げられ、後に出家して大原・寂光院に入り、一門の後世菩提を弔った。『平家物語』の「灌頂巻(かんじょうのまき)」では、時代に翻弄され数奇な運命を辿った彼女の生涯が、仏教的無常観をもって描かれている。

その中宮徳子に、作者は「右京大夫」という女房名で短い期間(約五年ほどと考えられている)仕えていた。彼女の本名は、残念ながら伝わっていない。生没年も未詳。父は能書の家柄で『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典研究などでも知られる世尊寺伊行(せそんじこれゆき)。母は楽人の家柄であった大神基政女(おおみわもとまさのむすめ)で夕霧といい、箏(こと)の名手だった。両親から受け継いだ高い文学的・音楽的素養をもって宮中に仕えていたことは、たとえば和歌の贈答で見せる機微、本文中に認められる『源氏物語』からの影響、また殿上人らが吹く笛に作者が琴を合わせて管弦の遊びをしたことを懐かしむというエピソードからも十分窺い知ることが出来るだろう。


なお「建礼門院」という院号が中宮徳子へ贈られたのは高倉天皇の崩御後のことで、その時にはすでに作者は宮仕えを退いていた。だから作者が当時「建礼門院右京大夫」というふうに実際に呼ばれていたことはなかったはずである。ではなぜ定家は『新勅撰集』にこの名を使ったのであろうか。


徳子のいる宮中から退いてしばらく経ったのち、作者は、かつての高倉天皇に大変よく似ていたという後鳥羽天皇のいる宮中へ再び出仕することになった(後鳥羽天皇生母であった七条院に仕えたというが、はっきりしたことは分かっていない)。だが少なくとも、再出仕したころの彼女はまた別の名前で(たとえば「七条院右京大夫」などと)呼ばれていたことだろう。

『新勅撰和歌集』の編纂のため和歌の提出を求めたとき、定家は彼女に「どの名前でお載せになりたいか」と尋ねる。彼女はこれに「すっかり遠ざかってしまった昔のことが忘れ難いので、その昔の名で」と答える。この時すでに最晩年の齢(よわい)に達していたはずの彼女は、今の名前ではなく、もう半世紀近くも前の、中宮徳子に仕えていたころの「昔」の名が後の世まで残ることを望んだのである。そして定家は、その彼女の意を汲んで、徳子の院号である「建礼門院」に仕えていた「右京大夫」として彼女の名を書きとどめたのであった。

つまり「建礼門院右京大夫」という名は、そもそもの初めから「むかしの名」「いにしえの名」としてのみ存立していたものであったということになるであろう。


では作者の言う「忘れ難い昔」とは、どのようなことであったか。それが『建礼門院右京大夫集』と題された家集の全体を貫く主題になっている。幾つかの歌には、作者の思いの丈を綴った長い詞書が付されており、詞書と和歌とが相俟って単なる和歌集という以上の文学性を帯び、作者の深い思いを述懐した一つの文学作品として読むことを可能にしているのである。作者は本文の中で「ためしなき(=前例のない、他にくらべようもない)」という言葉を幾度となく使っているが、まさしく身も引き裂かれるほどの「ためしなき別れ」を体験することになった作者が抱き続けた、決して尽きることのない遠い過去への追想、そして、永遠に終わることのない恋人の後世の弔い。八百年という時間を隔てた現在にあってなお、作者の痛切な思いはその真摯な力を失ってはいない。洋琴(ピ アノ)の調べによってその思いを象りながら、彼女の永遠の追慕の念のほんの一端でもお伝えすることができたなら、演奏者にとってこの上ない幸せである。



※公演当日(明日7/22)に会場にて配布予定のプログラム用に書いた解説文。
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by junitchy | 2007-07-21 19:50 | 冗語縷々 | Comments(0)
2007年 01月 03日
雪の白峰
『…自分は無意識に古人の言ったことを繰り返えす、「北に遠ざかりて雪白き山あり」もうそれでよい、ただ白峰でよい。』
小島烏水「雪の白峰」(岩波文庫『山岳紀行文集 日本アルプス』所収。なお青空文庫にも所収)

私にとっても、これで十分であった。ああ、明治時代の登山黎明期の登山文筆家の記した一節が、かくも鮮やかに、山への郷愁を駆り立てるとは。

ここでいう「白峰(しらね)」とはいわゆる南アルプス連峰を指す。南アルプス北部の北岳・間ノ岳・農鳥岳の総称として今でも「白峰三山」と呼ばれている。私も、初めて奥多摩へ登った時に見た南アルプスの山並みに感動したことを今でも思い出す。彼処に登ってみたいと純粋に思ったものだ(その後何度も南アルプスを歩いているのは、その時の思いが強いからかも知れない)。先日(昨年11月下旬)テントを背負って久し振りに歩いた奥秩父〜奥多摩の登山道からもやはり美しい南アルプスの山並みを一望することが出来た。その雪化粧した稜線を、しばし足を止めて眺めていた。

小島烏水はさらにこう続ける:『…「北に遠ざかりて(何等の神秘)雪白き山あり(何等の高潔)」即ち白峰である、何という透き通った感じのする山であろう、この外に美しい名もなければ、涼しい名もない、やさしい名もなければ、威厳ある名もない。』


さて、ここで古人の言葉として引用され、烏水の深い情感が託されている「北に遠ざかりて…」の一節は、鎌倉時代初期に成る紀行文『海道記』に見えるものだ。


…北ニ遠ザカリテ雪白キ山アリ。トヘバ甲斐ノ白峰トイフ。年来(としごろ)聞シ所、命アレバ見ツ。…
 惜(をし)カラヌ 命ナレドモ 今日アレバ 生(いき)タルカヒノ シラネヲモミツ
(『海道記』岩波書店・新日本古典文学大系「中世日記紀行集」所収)


さらにこの文章は『平家物語』に引かれている。一の谷の合戦で捕囚の身となった平重衡(しげひら)が、頼朝より要請があって鎌倉へ連行される。都から東海道を下って鎌倉へ入るのであるが、その道中での一場面である。


…北に遠ざかッて雪しろき山あり。とへば甲斐のしらねといふ。其時、三位中将(=平重衡)落つる涙をおさへてかうぞ思ひつゞけたまふ。
  をしからぬ 命なれども けふまでぞ つれなきかひの しらねをもみつ
(『平家物語』巻第十、海道下。岩波文庫版、第四巻)

…北に遙か遠く雪白き山がある。あれは何の山かと尋ねると「甲斐の白峰」だという。そのとき、三位中将は落ちる涙をおさえて、このように思い続けなさる。
  惜しくもない命ではあるものの、今日までおめおめと生き延びたかいがあってのことか、その名に聞く「甲斐の白峰」を見ることになったことよ。


どれだけの情感が託されてきたことだろう、中世、近代、そして今、それぞれの思いを馳せて眺める、雪の白峰は。
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by junitchy | 2007-01-03 06:49 | 冗語縷々 | Comments(0)
2006年 12月 31日
Another year
英語で another day とか another year とか言われる時の "another" という語は、どうも日本語に訳しにくい。普通の、何気無い、他と変わらない、ありきたりの、というようなニュアンスが出る。この意味で、今年という "another year" が終わろうとしている。

実際、無為にまた一年を過してしまった。いろいろなことがやりかけで、あるいは構想のみで手付かずのまま、終わろうとしている。ある種の閉塞状態、どっちつかずの未決定、ないしは怠惰、堕落、云々…。

写真撮影行は2〜3回しか行っていないような気がするし、山登りは夏以降の3回のみ。本は増えたがあれこれと読み掛けのまま打ち遣られ、部屋の中は散らかったままだ。ブログはたまにしか更新せず、サイトは閉鎖中。なんともはや。

来年に向けての抱負もなにもあったものではないが、少しは自分に制約(というか期限)を課してみたいと思う。「締め切り」という外的な要求は、時に、不可欠なのである。
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by junitchy | 2006-12-31 04:42 | 冗語縷々 | Comments(0)