カテゴリ:下書覚書( 5 )

2011年 07月 20日
訥言:キリスト教
        
訥言:キリスト教
(2011/2/27-)


キリスト教とは、新約聖書の教えを信じる宗教であって、イエスの教えを信奉する宗教ではないのだ、ということ。

ひょっとすると、キリスト教の教理が或る一定の解釈に定まるまでには、例えばイエスの言葉のみを抜き出してそれを信奉するような会派があったかも知れない。だがそれは、きっと後のキリスト教の正統から外れることになるだろう。それは異端ということになるだろう。それは異端として弾圧され、教会からは排除されることになるだろう。

キリスト教教会において成立した聖書の正統な解釈、それをまとめた信仰信条とは、そのまま直ぐに異端排除装置として機能するのであり、それはキリスト教の名において異端者の虐殺までをも正当化するものなのである。

だが、そもそもイエスの教えとは何であったか。それは先ず第一に、「頑な」になってしまった旧来のユダヤ教の教えの改革であったはずだ。ありていに言って、教典に書かれたことをただその字面においてのみ信奉することよりも、もっと優先することがあるのだということ。

この点においてそれは旧来のユダヤ教を越え出たのであり、イスラエルの地から離れ出て広まることになったのではなかったか。

或いはまた、旧来の権威の否定。イエスの思想は反体制的であり、だからこそ時のユダヤ王国はイエスを反逆者として磔にしたのではなかったか。

にもかかわらず、だ。そのようなイエスの強烈な記憶(一つの集団的記憶と言って良いだろう)によって生まれたであろうある信仰が、仕舞いにはその出自を忘れ、イエス本人とは預かり知らぬところで成立した聖書(と呼ばれる幾つかの書の集合体)の字義通りの教えを,ただ守ることに頑なになってしまったのである。

その結果は、内に対しては権威・腐敗であり、外に対しては排斥・排除・差別だ。

宗教改革のスローガンは「聖書に戻れ」であり、決して「イエスに戻れ」ではない。

だから本当は、キリスト教における「原理主義」というのは一種の自己撞着、哀れな内部矛盾を孕んでいるはずなのである。それがそうならず、ひとつの運動として成立してしまうことにこそ、キリスト教の不幸がある。




 
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by junitchy | 2011-07-20 21:06 | 下書覚書 | Comments(0)
2011年 07月 18日
訥言:キリスト教
訥言:キリスト教をめぐる走り書き
(2010/12/31-)


旧約・新約という捉え方。新約からみた「ヘブライ語聖書」の位置。

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イスラエルの民にとっての神ヤハウェが、そのままキリスト教の神となってしまうことの奇異さ。闘いの神/救いの神。一神教であることと、神の二面性または多面性との関係。

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キリスト教とは、イエスの教えではなくて聖書の教えを信じる宗教である、ということ。

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長子とそうでないものとが逆転するという、旧約において繰り返し現れるモティーフの意味することは何か。

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聖書という書物、現にこうしてまとめられて目の前にある一冊の書物の中において、例えば「…」ということと「…」ということが同居していることの奇異さ。

  *

古代民族間における争いは、それぞれの民族が崇めるそれぞれに唯一にして絶対の「神」同士の争いであるとするなら、かつてその争いに破れた民族は、その神に対する帰依心を無くし、つまりその結束の核を喪失し、民族として瓦解して多民族に呑み込まれてしまったことだろう。もしくはもっと単純に、滅ぼされた民族とともにその神も滅んだのだ。古来、そのようにして一体いくつの神が消え去ったことだろうか。

では何故、そのような一つの破れた民の神であったはずの或る神が、かくまでも長きに亘って存続し得たのか。いや、存続するということが意味する以上の強靭さを以て、その民を存続させてきたのだろうか。

すなわち、後にヤハウェの名で呼ばれたのであろうその神は、他民族との争いに破れ、その民を流浪の身に貶めた。だがそのとき、その民は、その責めを神にではなく、自らに負わせたのだった。

その神は間違いなく救いの神、万軍の神、絶対的な神なのだ。神との約束を破ったのは民のほうなのだ。だからその民は、神からのその離反によって神の怒りを買い、神に罰せられているのだ。

すなわち「今までも、そうだった」のだから。

いや、だからこそ、彼らの原初の民は、そもそもの最初から、過ちを犯すことが要請されたのだろう。そのことで神によって楽園を追放されたのだと言われんがために。神は人を造ったことを後悔していると言わせんがために。さらにその子孫は、その悪行が故に、大洪水によって一掃されてしまったではないか。神に背いた者は、同じ民であっても石で打ち殺されることになったではないか。他民族でも、ヤハウェへの恭順を示した者たちは救われたではないか…と。

それらのことは彼ら流謫の民とっては、真実、すなわち、そのとき彼らによって要請された真実なのであり、現に今、自分たちが苦難に晒されているのは、神の怒りの故であり、過ちを犯した民に対する神の裁定なのだ。

義を果たす者には、神は義で応える。その者には永遠の繁栄が約束されている。だからこそ、苦境にあってこそ、その神を崇め、その怒りを鎮めなければならないのだ。そうすることによって、いつかは、つまり自分たちの子孫の子孫たちは、救われるのだ、と。

かくして、破れた神にして、万軍の神。

  *

神によってその民に約束された地へ入る時、そこに以前から住んでいた者たちは滅ぼされる。このことは何を意味するか。

私はヤハウェである。私は存在しているところの者である。こう自ら宣しつつ有る神を戴く民からすれば、他の民は存在しないものに等しいということなのか。だから他の民はいささかの疑念もなく滅ぼされることになったのであろうか。

この殲滅を、ひとつのホロコーストと呼ぶことは、一体如何なる神の名の下に可能なのだろうか。

  *

キリスト教における消失点とは、ユダヤ教である。
恐らくはその近さゆえに、その出自ゆえに、キリスト教はユダヤ教を排除・排斥し、差別するだろう。ユダヤ教を乗り越えたことを自認するからこそ、そしてユダヤ教へは決して戻ることがないからこそ、それはユダヤ教を否定するだろう。

  *

そこには断絶が、すなわち連続と不可分の断絶がある。

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異端とは何か。キリスト教に於ける異端とは何か。

何ゆえ、異端は排斥されなければならないのか。解釈の多様性が妨げられるのは何故か。それは、正統派、オーソドックス、カソリックの存立そのものが、実は非常に危ういものであったからではないか?

  *

〔・・・〕



 
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by junitchy | 2011-07-18 12:41 | 下書覚書 | Comments(0)
2011年 07月 17日
下書き:災厄と芸術、日常と非日常
震災後。このことの、芸術に与えた意味合いとは何か。

…ということを、考えさせる機会があった。それはある著名な音楽家のインタビュー記事だったわけだが、そこにおいて吐露されていたのは、あのような<災厄>desastreを前にして、何故「音楽」なのか、という、切実でしかも大いなる疑念であった。

音楽に限らず、あらゆる芸術は日常的なるものの上にある。「上」と言っても、それは何か高尚な芸術的ヒエラルキーのことではなく、まずはむしろ文字通り、芸術をそれそのものとして享受するために欠くべからざるものとしての土台、ということだ。

そのような「日常」が、ほとんど一瞬にして、それも全的に、失われてしまった、そのとき、一体どれほどの人が、芸術を、音楽を楽しむことができるのだろう、と。これは、芸術家ないし音楽家にとっては確かに大変切実な問題であるだろう。

そこには「今はそんなことをしている場合ではない」というような、いかにももっともらしい考えも付け加わり、それは風潮となり、不謹慎、自粛、そして延期、中止、だ。

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だが反対に、こうした芸術を享受すること、つまり音楽を聴くことは、むしろ、そうすることを成り立たせてきた当のものであった日常、今や失われてしまった日常なるものを取り戻すための一つの契機、よすが、ともなるであろう。芸術なるもの、つまり日常的ではないもの、非-日常、日常の上にあって、日常を相対化さえするもの、そういった芸術を、十全に享受することができるようにするために、却って日常なるものが後から要請される。もっと有り体に言って、芸術を享受することで、それを通して、かりにその享受の瞬間だけのことであったにせよ、既にして「日常の生」に戻っていることになるのだ。それを単に「癒やし」と呼ぶことも出来るだろう。それは目には見えぬゆっくりとした動きで、だが確実に、効果を上げていくだろう。

 *

芸術家の側からは、このような大規模な日常の欠如は、芸術制作の母胎ともなるであろう。そうした欠如は、ある種の表現へと向かい、芸術へと昇華する。それは、ある種の埋め合わせ compensation と言えるだろう。この語のラテン語の語源へと遡り、「共にco- 慮るpensere」こと、つまり失われたものに対する共感、共鳴、配慮。そしてそれはまた、個人の側からの運命に対する埋め合わせ、相殺しようとする感情の発露でもある。

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人々は、芸術を求める。まさに、芸術がもっとも有り得ないであろうと思われているところで。



  
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by junitchy | 2011-07-17 21:44 | 下書覚書 | Comments(0)
2011年 06月 27日
アナログ/デジタル
かつて、大学の一般教養の科目で履修した数学の授業で期末に出された課題は、テキストの練習問題を解く、または、「コンピューターについて」という題目でレポート提出、というものだった。理工系の先生が文系の学生のために便宜を図ってくれたものだろう。私もその題目でレポートを書いた。
そのレポート(というか小論文)も、そのための下書き・草稿の類いも、私の手許にはもう残っていないが、20年近く経った今でもその内容は大体覚えている。

その中で私は先ず、アーサー・C・クラークの短編「F IS FOR FRANKENSTEIN(邦題:FはフランケンシュタインのF)」を取り上げた。1950年代に書かれたこの近未来SFを読んだのは中学か高校生の頃だったろうか。その短編集の文庫本も今は手元に無いのですぐには読み返せないのだが、その大雑把なストーリーはこうだ(ったはずだ):世界各地がコンピュータのネットワークで結ばれた近未来社会で、ある日そのネットワークで原因不明の不具合が全世界的に発生する。人の大脳と各器官とを結ぶ末梢神経ネットワークになぞらえられるそのコンピュータネットワークは、突如として「意識」として「目覚め」た。そしてその幼い<組織体>が、ほんの手始めに、己れの能力を試すように、ささいな「悪戯」を働いたのだった…。

そして私はこう述べた。つまり、デジタル的なるものが目指すところのものは結局のところアナログ的なるもの、つまり如何にしてアナログ的なるものを手に入れるか、ということであり、コンピュータが到達せんとするものは、究極的には人間そのもの、つまり如何にして人間そのものに近づくか、ということである、と。

当時からアナログとデジタルとは対立項として語られて来たが、その実、その究極においてはその両者は一致する、ということなのだ。非ユークリッド幾何学にあっては、平行線は無限遠において交わるように。私は当時、そのような思考、つまり単純な二項対立を乗り越えるような、もしくは無効化するような思考法を好んでいた。
余談だが、理系・文系とかいう分け方もまたそのようなものだと思っていた。究極的には、数学的思考と哲学的思索とは、互いにとても近くにいるのである。

最も数値化が進んだものは、全く数値化がされていない状態に近づく。それを真似る、擬態する。それはミミック(mimique)である。それはほとんど(quasi)-生である。

反対に、生物学的・生理学的な分析が進めば進むほど、それらはプログラムとして読み取られるべくして提示されていることが明らかになってくるのであろう。

人間の(=という)プログラム、前以って書かれたもの、の解析が目指すもの、そして自動計算機プログラムが到達せんとするもの、それは、人間の目的にして終焉(Les fins des hommes)である。
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by junitchy | 2011-06-27 00:32 | 下書覚書 | Comments(0)
2011年 06月 25日
ブログ下書き
書きたいと思うことは日々、多々ある。それらは幾ばくかの断章であり、短い、断片的な修辞であり、ある種のフレーズのパラフラーズである、云々。それらのなかで、辛うじて存らえることの出来たものだけが現に存らえているのだ。

実際に走り書き(と言っても実際はMacかiPhoneかで文章をタイピングしているのだが)してみて、そこから少しずつ書き足して、だがしばらく放置して、その後再び取り出して…、読み直し、全面的に書き直し、順序の入れ替え、章の組み替え、語句の差し替え、削除、云々、実際のところ、こうして数ヶ月以上に渡って一つの文章を書き継ぐこともある。

それらは遅々とした進捗で完成への途上にある。ヴァレリーに言わせれば「完成とは、推敲」なのであり、一つの完成とは或る何らかの外的な制約(例えば原稿の締め切り)によってもたらされるに過ぎないのである。そして、そのような制約の課せられることのないこれらの我らが文章は、半ば打ちやられ半ば忘却されたまま、推敲を受けるべく待機して、ある種の完成の到来を待っているのだ。

以上のことを口実して、今まで何かしらの留保点があったために公表に至らなかった幾つかの文章を、若干体裁を整えて、場合によっては加筆もしつつ、少しずつ、公開してみることにしよう。




 
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by junitchy | 2011-06-25 17:00 | 下書覚書 | Comments(1)