カテゴリ:Faits-Divers( 4 )

2013年 09月 02日
A matter of dignity.
尊厳の問題。

(2011/5~)

某とかいう反捕鯨団体による、和歌山の捕鯨が盛んな或る漁村での執拗な嫌がらせの様子を撮影した映像を見た。

そこでは、漁民の顔面にビデオカメラを向け、漁民に対して悪態をつき、蔑みの言葉を発して、漁民が耐えかねて怒り出すところを撮影しようとしている反捕鯨団体の様子が映し出されていた。

執拗なカメラの追跡から顔をそらすと「恥ずかしいことをやっていると分かっているから顔を隠すのだろう、お前は負け犬だ」などと言っているのだが、それらの言葉は彼らの母国語(つまり英語)で喋られているのであり、彼らが独り言を呟いているのでない限り、それはその場にいる漁民に向けられているのではないし、少なくとも漁民が彼らの言葉を理解するかどうかは問題ではない。そうではなく、彼らの念頭にあるのは、きっとその動画をインターネットで見るであろう人々、彼らにとって最も大切な、彼らを金銭的に支援してくれるであろう人々が、それらの罵りの言葉が漁民に対して投げつけられているのを聞いてくれること、そのことだけだ。

彼らがそもそも漁民を相手にしているのではない以上、いかなる種類の話し合いも効果はないであろう。彼らは単に抗議する対象があればよいのであり、そもそもそれ以上でもそれ以下でもない。彼らの目的は抗議することそのものであり、抗議していることを見せることであるので、それによって事態が彼らの主張にとって進展したことになるかどうか、ということは二の次なのだ。

 *

反捕鯨団体は、捕鯨がいかに残虐かをアピールせんがためにクジラやイルカの屠殺の場面を撮影しようとする。漁民は、撮られまいとして大きなシートを張って覆いをするのだが、やはりその隙間から血まみれの屠殺体を撮られてしまう。その映像は即座にインターネットに公開され、それは新たな抗議と、新たな寄付行為を生むことになるのであろう。

だが何故、隠そうとするのか。決して後ろめたいことをしているわけではないのに。漁民たちは自問する。そうして見い出した答えは、命の尊厳、ということだった。命を絶って命を繋ぐ。この尊い命の犠牲に、報いなければならない。見世物のように、好奇の目に、それを利用しようとする者の目に晒してはならないのだ。このような思いは、漁民だけではなく、自ら精魂込めて育ててきた家畜を最後には屠ることになる畜産農家にも共通のものであろう。それは、厳かな行為であるべきなのだ。

いやそもそも、かつて人間は、他の動物と同じように生き延びて来たのだ。ただ単に、屠殺ということを現代生活では「見ずに済ませる」ことが出来ているのに過ぎない。だからそれを改めて見ること、知ることに意義はあるだろう。だがそれはまさに命の尊さを再認識する場であるべきであり、行為の見た目の残虐さを喧伝するためであってはならない。例えば食肉工場で、片足で逆さに吊るされた大量の鶏がラインの流れ作業のなかで絶命し、羽根を毟られ、皮を剥がれ、解体され、加工されるのと、クジラの一群が浅瀬に追い込まれて撲殺されるのと、どちらが残虐でどちらか残虐でないかなど、果たして如何なる基準で決められるというのだろうか。

反捕鯨団体のメンバーは鶏や牛の屠殺には全く注意を払わないばかりか、その厳かさなどということには関知しないからこそ、彼ら自身の生活には影響が及ばないクジラ・イルカ漁だけを取り上げて、その厳かな行為を見世物にすることができるのだろう。そして彼らは、彼らのカメラが映し出した映像がショッキングなものであればあるほど、彼らの収入に直結するということしか考えていないのだ。

 *

さて、自らの価値観を専ら相手に押しつけ、相手の言い分は聞く耳を持たない、そのような彼らの行動の根底には、キリスト教に通じる考え方があると思わざるを得ない。つまり、イエスの教えを守るのではなく、聖書に書かれたこと、後世に定めたその解釈だけを頑なに守る宗教である、ということを先に指摘したが、その意味でのキリスト教だ。

「汝の隣人を愛せよ」という言葉は、ありていに言って「隣人」がキリスト者であるか、ないしはキリスト者となる限りにおいてのみ通用するのであり、他宗派や、いわんや他の「邪悪」で「誤った」教えを信仰する者はそもそも「隣人」でさえもない。そのような者たちは、彼らキリスト者にとっては「滅ぶべき存在」であって「亡き者」も同然であるから、そこには「他なるもの」への畏敬の念などということは有り得ない。異なる考えを持つ他者とは、その隔たりのまま互いに分かり合うことの出来る「隣人」といったものではなく、自分の考えを相手に無理に押しつけるか、それでも受け入れなければ排除するかの「対象」でしかないのだ。そして厄介なのは、彼らはそれを正しい行いだと信じていることである。信念をもって、他者をないがしろするのだ。これはそのまま、某反捕鯨団体の行動に当てはまる…彼らが純粋に反捕鯨に信念を持っているならば、であるが。いやそれとも、これでは彼らをすっかり買いかぶっていることになるであろうか。

  *

だから、問題なのは尊厳ということだ。まずは、絶たれる命の尊厳。そして、人間の、他者の尊厳、ということ。

反捕鯨とは、こうした尊厳というものを「ないがしろ」にすることでのみ成り立っているのだ、と言えないだろうか。

(〜2012/1)







 
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by junitchy | 2013-09-02 20:58 | Faits-Divers | Comments(0)
2011年 07月 01日
致命的レトリック(未完)
民主党的言説研究

…などと銘打ってみたものの、そのようなことはほとんど成し得ないだろう。ここではただ、ある種の概観を、アウトラインを粗描してみようとすることが出来るに過ぎない。

さて、民主党政権を、その政策内容からして「極めて左翼的」と評価する向きがある。

前首相の偏愛語である「友愛」という概念も、人種や国、宗教、母語などといった従来の概念に取って代わる、新しい共同体を志向した概念であったはずで、それは極めて左翼的、反体制的であると言えよう。それがひとたび体制側から、つまり政権の側からある種の無邪気さをもって謂われることの奇異さ、奇妙さ、或いは気づまり、困惑、云々、については、以前述べた。(以前の記事

そうした概念は大いに(こう言って良ければ)文学的であり、逆に言えば、それらが現に存在せず、存在し得たとしても極めて限定的(?)にでしかないのであってみればそれらは文学的表現に訴えざるを得ないであろうという意味においてもまた文学的にしかあり得ない、という、まさにその在り方においてしかあり得ないものであったろう。多くの文学者が左翼的思想傾向を見せるのは、このような言語の所為とすら言えるだろうか。つまり、来たるべき「ユートピア」は、決して現出することは無く、現出することがないこという条件においてしか存立し得ないことにおいて初めて、ユートピアたり得るのである。これはほとんど文学そのものの謂いである。

左翼的為政者たちが操るであろう言語とは、そうした体の言語なのであり、つまり、現実性といったことよりも、現実的な事態といったことよりも、それらの言語化、言語による定式化、言葉をうまく操ること、というようなことどもに偏りがちである。有り体に言って、彼らによっては、現実の事態よりも、それを彼らにとって都合のよいやり方でうまく表現することのほうが重要であり、逆に、彼らが作り出した言語表現のうちに彼らは自ら留まるのである。

繰り返し言うが、こうした言語表現の特徴はそもそも文学者たちが利用するべきものであったはずであり、それをひとたび為政者たちの口から何のあてどもなく発せられるところから、悲劇が、そして喜劇が始まるのだ。

こうした為政者から発せられる言語の「上滑り」の例は枚挙に暇がない。

そしてそれは、今や、致命的なレトリックである。云々。

〔・・・以下、未完・・・〕




 
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by junitchy | 2011-07-01 19:26 | Faits-Divers | Comments(2)
2010年 02月 11日
友愛、共同体…
友愛、或いは、共同体…

およそ、国家という体制というようなものの外側で言われて来たような、あるいはその外側に、その彼岸にあるものとして言われてきたかのような概念。

それはおよそ「反体制」側のスローガンのようなもの、既存の体制にとっては「他のもの」もしくは「非-体制」的なものであり、文学者が夢見る一種のユートピアのようなものであり、そして恐らくはそのようなものとしてのみ(つまり、あり得ないこととしてしかあり得ないものとしてのみ)現出することが出来たであろうようなものであったはずのもの、なのだったが。

さて、それらの概念が、ひとたび「体制」の側から、もっとありていにいえば「政権」の側から、ほとんど無邪気と言えるような或る種の軽薄さとともに言われた時、果たしてどんなことが起こるのか?

私がたとえば今、現に感じていると言えるのは、そのような事態に際して覚えることになったのであろうような奇妙な感覚である、ということなのかも知れない。

ほとんど無邪気に、だ。それが一国の宰相が口にするということ自体が。
多分それは、或る世代に共通して持たれているのかも知れないような国家観なのだろう。そしてその世代が、そのような思想を持ち続けたままで体制側に付いたとして、そうして目指すのは果たして本当に、かの「ユートピア」なのだろうか?

或る種の軽薄さ、だ。彼らが単に古い体制を(彼らの意に反して、なのかも知れないが)また別の体制に変えるだけになってしまうことになることが分かっているのだとすれば。それが、彼らが無邪気にもやろうとしていたのかも知れないことに対する裏切りであるのにもかかわらず。

友愛、或いは、共同体。これらのことは、文学者に任せておくべきなのだ。それが現出することなく現出し、存続し得ないものとしてしか存続しないのであってみれば。たとえば1968年のパリにおいてのように。または、マルグリット・デュラスの≪Detruire≫、この「破壊する」という動詞の不定形のように。
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by junitchy | 2010-02-11 04:11 | Faits-Divers | Comments(2)
2008年 11月 15日
喫煙マナー
最近は喫煙マナー向上ということが盛んに言われ、路上喫煙をやめるよう呼びかけるキャンペーンなども行われており、私のように受動喫煙の被害を被っている者にとってはありがたい限りだ。
それでもやはりまだ歩行喫煙をしている人はいるし、煙と灰をまるでわざと撒き散らすかのようにタバコを持った手を大きく振って歩いているような大迷惑な人もいる。そういう人の横を通り過ぎる際はとても注意が必要だ。
煙なんてすぐに消えてしまうと思っているのかもしれないが、屋外でも無風や微風の状態ではすぐには拡散せず、タバコを吸っていた人のかなり後ろを歩いていても、煙を吐いた辺りでは臭いがすることがある。それとも、私が敏感過ぎるのだろうか。

さらに困るのは外食時。最近は分煙になっているお店も増えてきたが、普通に喫煙OKのお店もまだある。以前よく通っていたカウンター席の小さなパスタ店にも吸い殻入れが置いてあった。たまたまその日は混雑していて席はほぼ埋まっていた。私の隣に座っていた人が、食後にタバコを吸い始め、タバコを持った手を私の方に向けてきた(それほど意識していないのだろうが、口にくわえていない時のタバコを自分の外側に向けて持っている人は多い。つまり喫煙者本人に灰が掛からなければ良いというわけか)。私はまだ食事中だったので、思わず「こちらにタバコを向けるのは止めてもらえませんか?」と言ってしまった。その方は「すみません」とすぐに消してくれた。これはもう数年前の話で、そのパスタ屋も今では潰れてしまった。

つい先日、別のインドカレー屋に友人と入っていたとき、隣のテーブルに座っていた3人連れの一人がタバコに火を点けた。右手に携帯でメールしつつ左手にタバコを持っていて、おそらく同席の人に煙が掛からないようにするためかその左手はテーブルの影になるように下の方にあった。つまりタバコは隣の私の方を向いていて、その煙はすべて食事中の私に向かって来るのだった。カレーの味が不味くなる。一応、気付いてもらえるようにと咳払いをしたが効果がなかったので、思わずまた「すみませんが、こちらにタバコを向けるのは止めてください」と言ってしまった。その人は謝るでもなく「もうタバコは吸えない…」というようなことを言ってタバコの火を消していた。

喫煙OKのお店に入っているのだから「タバコを吸うな」とは言えない。例えば飲みの席ではほとんど周り全体でタバコを吸っているし、自分も酔っぱらってくるのでそれほど気にしなくなることもある。ただ、タバコの煙を吸いたくないと思っている人のほうにわざわざタバコを向けて持っている人に対して一言注意しても、言い過ぎにはならないと思うが、いかがだろうか。つまり、タバコを吸うのは構わない、でも「なぜご自分のほうに向けて持たずに、わざわざ他人のほうに向けて持つのですか?」と。
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by junitchy | 2008-11-15 23:57 | Faits-Divers | Comments(2)